【大乗仏教】唯識派 三性説③
ここまでの内容を簡単にまとめます。
弥勒(マイトレーヤ)の『大乗荘厳経論』では「見分と相分」について、「二の迷乱」となっていましたが、『中辺分別論』における「二つのもの」とは「阿頼耶識(識)とその顕現である見分・相分(四通りの対象)」を示していると筆者は考えています。
そして、注釈者である世親(ヴァスバンドゥ)はおそらく、二つのものを遍計所執における主観・客観のことであると理解していると思われ、注釈に矛盾が生じているように感じられます。
○中辺分別論
弥勒(マイトレーヤ)の著書である「中辺分別論」に三性説が詳しく説かれています。弥勒が説く詩頌に世親(ヴァスバンドゥ)が注釈を加えています。
弥勒(マイトレーヤ)の最初の誌頌は以下のような意味になると筆者は考えています。
世親の注釈は【他方、また、このように空であると否定された後にも尚否定されえないで何らか余ったものがここにあるならば、それこそ今や現実なのであると如実に知るというように述べられている空性の正しい相】と続きますが、これが円成実としての空性を指します。
筆者はこのように考えたのですが、『中辺分別論』における「二つのもの」をどのように解釈するかについては、幾つかの説があるようです。
【筆者の考え】
①知られるもの=相分(所取)と見分(能取)
②知るもの=識(阿頼耶識)
③虚妄分別=知られるものと知るもの両方
しかし、上記の①を所取・②を能取とする説があります。また、②を虚妄分別とする説、更には①を二つものとする説、遍計所執を二つのものとする説、①を遍計所執かつ②を虚妄分別とする説もあります。どの説が正しく弥勒の三性を説明できているのかは分かりませんが、とりあえず、筆者はこの経典の後半部分も踏まえ、上記のように考えましたので、次回の記事もこのまま話を進めていきます。