短歌随想㈢『志貴皇子と萩原裕幸』
石(いわ)走る
垂水の上のさわらびの
萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子
千三百年前の万葉集の傑作の一つであり、原文は〈石激垂見之上乃左和良妣乃毛要出春爾成来鴨〉であるが、「激」を「はしる」と読むか、「そそぐ」とするか、また、「垂見」を「たるみ(滝又は地名)」とするか、「たるひ(氷)」と読むか、古より諸説論争がある。
この歌に関する諫早出身の詩人伊東静雄の評論が発見され、諫早の方言(方言には古語の旧態を残すものが多い)では「たるみ」は「つらら、氷」のことを指すのだと、新しい解釈の可能性を知った。
現代の短歌も言葉も、千年後、二千年後に様々に解釈され、論争されているかも知れないと思うと、なんだか嬉しくなる。
ここに立つ
樹が木蓮といふことを
また一年は忘れるだらう 荻原 裕幸
作者は自らの短歌を「ニューウェーブ」と命名し、新しい詩的表現を志向する歌人。なぜこの一首か。この作者の感慨に大方の人が首肯するだろうと思うからだ。
普段は目立たぬ木蓮だが、ふと気づくとはっとするほど純真な花を咲かす。花が「蓮」に似ていることからの名。地球上で最古の花木の一つと言われ、一億年の昔から今の姿と聞く。
咲くときの意外性もさることながら、偶に風もないのに花びらが一斉に散ることがあるらしい。その驚きや、誰もが感嘆の声を上げるという。
その幸運に巡り遇えないものかと、試してみるが難しい。来年こそはと、密かに思う。