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〜書き残したあの風景〜 『昭和から届いた手紙』 【湧網線知来駅】(vol.3)

【写真集 P.182〜187 /平成19年執筆】

『昭和から届いた手紙』
~湧網線知来駅回想~
(vol.3)

「仁倉」から小さな峠道を登り切ると、視界に5km四方の平野とその中央部、10軒ほどがひしめく集落が見えてきた。

「知来」だ。

 知来駅と川村商店はどうなっているだろうか。

まだ、そのままの姿を残し、あの笑顔をふたたび見ることはできるのだろうか・・・。

それとも・・・。  

緩やかなあの左カーブを曲がれば、見えてくるはずだ。見覚えのある通りの映像。駅は左側にあったはず・・・。  

あった!

 グレーのコンクリートに可愛らしい赤のトタン屋根。 そして、その右側には川村商店があったはず。

 あった!! 

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〈旧知来駅前 川村商店〉

 知来駅舎と川村商店は、全くといっていいほど20年前そのままに、ひっそりと佇んでいた。駅構内の空き地は、お年寄りのゲートボール場へと姿を変え、駅舎の入口には「知来ゲートボール場」の札が新たに掲げられていた。

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〈旧知来駅 現在はゲートボール場〉

 川村商店は、入口のわきに自家用車が停まり、商店のガラス戸が僅かに開いている。中には川村夫妻がいるはずだ。健在だろうか・・。

「こんにちは」

「はい」

中から老婦人が出てきた。

「・・・こんにちは。覚えていらっしゃいますか?20年前、湧網線廃止の頃に何度かお邪魔して、友人と駅でジンギスカンをごちそうになった・・・」

 「あぁ、あの時の!覚えていますヨ。何たっけか?何君だっけかと一緒に」

 「そうです。N君とY君です」

 こわばった顔がほころび、婦人の顔にふっと笑顔が浮かんだ。

 「ああ、懐かしい。あの時の笑顔だ」  

あのころから20年以上が経ち、60代も半ばにさしかかっているであろう彼女は、さすがにあの頃より老けてはいたが、笑顔の中にある、人をほっとさせる和やかな雰囲気はあの時のままだった。

 「おじさんはお元気ですか?」

 「ハイ、中に居ますよ」

2人のやりとりを耳にしたのだろう。
奥さんが説明するやいなや、「覚えてるよ!懐かしいねぇ」の声。

「どうも、ごぶさたしています」

 20年の歳月が経ち、おじさんの立ち振る舞いは、ゆるやかなものとなったが、茫洋とした、周りの人々を大きく包みこむ暖かなまなざしと、時折見せる精悍な目の輝きは、あのころと何も変わっていなかった。

 「まぁまぁ、あがってお茶飲みなよ」

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〈川村商店 川村夫妻〉

当時、川村商店におじゃましていた頃の自分はまだ18歳の高校生。込み入った話ができるわけでもなく、また興味があるわけでもなく、川村夫妻がどんな職業でどんな人生を歩んできたかなど、全く知る由もなかった。

 川村夫妻はまだ鉄道が走っていた頃、数えきれないほどの旅人に、時には食事をふるまい、家に泊め、さまざまな施しを行なっていたこと。おじさんは、戦争で満州へ行き、自分の部隊が沖縄へと転戦する一週間前、原因不明の高熱にうなされ、日本へ帰還したあと、沖縄へ転戦した部隊が全滅し「罪滅ぼしだよ」と、今も沖縄の慰霊祭に参加していること。終戦後、本家のあった大阪に出入りしていた孤児を、ここ知来の実家で彼が成人を迎えるまで面倒をみたこと・・・。

彼はそれを誇るでもなく、ごくごく当たり前の出来事のように懐かしそうに話した。

 昭和初期から戦中、戦後という大きな時代のうねりを感じながら、僕は次の質問を2人にしてみた。

 「湧網線が無くなって20年以上経ちましたけど、あの頃と何が変わりましたか?」

おばさんは、遠くを見つめ、少し寂しげな表情を浮かべながら語り始めた。

 かつて数百人の生徒が通っていた知来小学校は、昨年ついに廃校になったという。最後の生徒は全学年たったの5人。現在70戸近くある知来地区のうちで子供がいる家は、わずか数件。子供の数は10人にも満たないという。

近頃は、地方の小さな集落にもコンビニがある時代。
商店の経営もけして楽なものではないだろう。だが「お客さんがいる限り、お店は開け続けるつもり」と、おばさんは最後にそう言って笑った。

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 商店の入り口には、今も「国鉄乗車券発売所」の看板が掲げられていた。
あの時と変わらない駅前の情景。

いつまでのこの光景が続くことを願いながら20年ぶりの知来を後にした。

〈終〉

  【湧網線 知来駅 昭和62年3月19日廃止】


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