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人生はリレーの様に

例年の正月、家内と僕は屏東里港の妹の家に行き、3日ほど泊まらせてもらっています。家内の実家は既に両親が2人とも他界してしまっており、誰も住んでいないので、帰省の際はいつも妹の家にお世話になっています。

部屋は、今は大学院で学校の宿舎に住んでいる甥の場所を使わせてもらっています。いつもの様に、2階のこの部屋のベッドで寛いでいると、家内がこの様に声を掛けてきました。

「ちゃんとここの叔父さん、叔母さんと話をした?この家はご両親の持ち物なの。妹は嫁としてここに住んでいるだけ。彼女の家ではないのよ。ちゃんと家主さんと話をしないといけないわよ。」

それは、知らなかったと思ったと共に、急に不思議な感慨に囚われました。

この家はご両親のものなので、彼らがいなくなると、妹の旦那さんのものになり、その後は今部屋を使わせてもらっている甥のものになるのだろう。
家の持主は、時が移ると変わっていくのだけれども、家自体は存在し続ける。まるで、リレーにおけるバトンの様だ。走者は1人づつ変わっていくのだけど、渡されるバトンは変わらない。

その様に考えたことから、色々な妄想が湧き起こりました。他に、どんなバトンが考えられるのだろう?

不動産

我々夫婦には子供がいません。東京に部屋を持っていますが、2人とも亡くなると持主はいなくなってしまいます。この部屋の相続人を指定しておかないと、裁判所により競売にかけられてしまうのでしょうか?このバトンは、引き継ぐ相手を考えておかないといけません。

建築物

僕の仕事は、建築設計とそれに関わるコンサルタント業務です。この仕事の面白みは、自分の設計した建物が何もない敷地に姿を表し、それを多くの人が実際に使うのを見ることができることです。無から有が生まれる。自分の構想、設計した建物が実在化する。これは、他にも画家や彫刻家などの仕事でも同じかもしれません。

建物は、自分の持ち物ではありません。しかし、自分の頭の中に宿った構造物が、実際に姿を現し、それが何十年にわたって使われ続けていく。これもある種のバトンかもしれません。
僕は、建築設計というバトンを生み出す仕事に関わっていると言えそうです。

遺伝子

生物が子孫を残していくのは、遺伝子を後代に伝えるということだと言う考え方を勉強したことがあります。リチャード・ドーキンスによる「利己的な遺伝子」という本にある"vehicle of gene"、生物は、"遺伝子の乗り物である"という概念です。こう考えると、引き渡されるバトンは、遺伝子であるということになるでしょう。

我々夫婦には子供がいないので、自らの遺伝子を残すことはできません。しかし、それに準じる可能性として、兄弟姉妹の子供達、甥や姪たちには、何分の一かの自分達と同じ遺伝子が含まれています。彼らの面倒をみることで、自らの遺伝子の一部を残すことに寄与できるのでしょう。

ミーム

リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」において、遺伝子:gene、の他に、文化的な遺伝単位としてミーム:memeという概念も提唱しています。

これは、生物の遺伝子に関連させて、文化的な行いにも、後代に受け継がれていく因子があるのだろうという考え方です。教育や文字、音楽など、さまざまな文化的な内容が、生物学的にではありませんが、その他の媒体を介して、後代に受け継がれていく。それを遺伝子に準じる文化的な遺伝単位として"ミーム"と名付け、概念化しています。

このミームも、人間が後代に引渡すバトンと考えられるでしょう。建物や彫刻の様に具体的な形を持つものではありませんが、実体はあります。無形文化財の様な概念です。

人間はこのミームを構想したり、それを教育して教えることで、このバトンを後代に引き渡していると考えられます。

会社や法律、社会システム

リチャード・ドーキンスが"ミーム"という場合、それはどちらかというと、音楽や芸術、言語など、文化的な現象を指している様に思います。
しかし、人間が社会を進歩させている大きな側面に、社会システム自体のソフトウェアの面もあると思います。例えば、法律の制定、貨幣の発見、会社の設立や資本主義システムの運用、民主主義や社会主義などの社会制度など。これらのソフトウェアも、形はありませんが、人間の社会には不可欠なもので、それは代々継承され発展していくものでしょう。
これら様々な社会的ソフトウェアも、人間が引き継いでいくバトンと言えるでしょう。

国家や文化

例えば、日本という国家、日本文化と言ったものはどうでしょう。社会システムという様な世界を横断する普遍的なソフトウェアではありませんが、それぞれの国民、民族のよってきたる行動様式、民族を主体とした、或いは汎民族主義的な国のあり方
現在の国民国家の存在と、その国家の持つ文化のあり方。これらを含めた、大きな意味での"ミーム"。芸術文化的な遺伝単位ではありませんが、その総体としての通時的な文化の様相。これも国或いは民族という単位で引き継いでいる文化というバトンと考えられます。

人生のバトンとは?

人間が生きていく際に、自分が何をこの社会に残せるのか残せないのかという様なことを、この様に人間がリレー走者で、何らかのバトンを次世代に引き継いでいるのかもしれないと考え、色々な妄想が思い浮かびました。小さなものは遺伝子から、建築物、社会システム、国家のあり方などです。

自分はこの一生で、どの様なバトンを残せるのかと考えると、その対象は色々考えられます。僕はたまたま、建築設計という仕事を通して、建築物をこの社会に残すことができています。子供はできなかったので、遺伝子を残すことには失敗しています。

そんな中で、このnoteに書いている文章は、もしかすると、ある意味でこの社会に何らかの爪跡を残しているバトンになるのかもしれないと、最近そんなことを思っています。

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