台湾語のこと
僕の家内の実家は、屏東県の里港にあります。南部に生活する家内の家族は、母語として台湾語を話していたので、僕は否応なく台湾語に向き合うことになりました。
家内の実家で
家内は友達付き合いの好きな人間でしたので、僕が輔仁大學に留学していた半年の間に、屏東の彼女の実家に連れて行ってくれました。他に友人2人も一緒に、4人のパーティーで屏東の家内の実家に行き、その後墾丁にまで列車で赴き、現地ではスクーターを乗り回しました。
家内は6人兄弟の3女で、お姉さん2人、妹1人と弟が2人います。家内の実家に行くと、この兄弟姉妹とは中国語を使ってのコミュニケーションに問題はないのですが、お父さんとお母さんはそうはいきませんでした。お父さんはかろうじて中国語でのやりとりができるのですが、お母さんは全く話せないのです。
なんでも、ご両親よりも少し上の世代では、日本語の教育を受けていたのですが、彼らの世代はちょうど日本政府が台湾から離れ、国民党政府がやってきた過渡期で、お母さんは小学校、中学校の教育を受けられなかったのだそうです。その時代では女の子には教育を与えなくとも良いという風潮があり、お母さんは初等教育を受けることが全くできなかったということです。ですので、家庭では台湾語を話してコミュニケーションを取るのですが、お母さんは中国語を話せず、漢字の読み書きもできませんでした。
この家内の実家に行ったことが、初めての台湾語との遭遇でした。
台北に暮らし始める
それから2年経って、彼女との結婚を前提に台北で一緒に暮らし始めました。仕事は客家人の建築師の元で設計事務所勤務、そして年に3、4回家内の屏東の実家を訪れるという生活です。この様な生活になると、日常の中にたくさんの台湾語の会話が混じって来るようになりました。
この建築師は客家人でしたので、事務所内での共用語は中国語でした。しかし、所員同士の会話には少なからず台湾語が混じります。そうは言っても、皆僕を相手には中国語を話すし、会議の場でも大体において中国語だったので不自由はありませんでした。
問題は、屏東の実家に行く時です。彼女の家では、会話の90%以上が台湾語なのです。基本的に僕が加わらない時は台湾語、そして僕がいてもお母さんがいる時は台湾語になります。
これは、なかなか辛いものがありました。簡単な単語を聞き取ることくらいはできる様になりましたが、おしゃべりが続くともう分からなくなり、話題が何なのか全く把握できません。
でも、初めの頃は強気で、僕はこれだけ中国語を学んで話せる様になっているのだから、無理に台湾語を学ぶ必要はないと考えていました。一方、家内の弟からは、台湾にいるのだから台湾語を話せるようになるべきだと、説教されていました。
お母さんが台北に来た!
しかし、彼女と結婚し、台北で一緒に暮らしていくうちに、そうは言っていられない事態が起こりました。家内が手術をすることになり緊急入院、そして僕も仕事があるというので、家内の面倒を見るために屏東からお母さんが来ることになったのです。
家内はお腹を切る手術のために、術後一週間ほど入院しました。お母さんは彼女の付添いのために病院に通い、夜は我が家に泊まることになったのです。こうなると、僕の方から台湾語で話しかけるしか方法がなくなります。
必死になって、拙い台湾語のヴォキャブラリーを使って話してみますが、まあ会話にはならず、お母さんのいう台湾語も聞き取れず、お母さんの2週間の滞在の間はとても残念な思いをしました。そして、やはり台湾語もある程度はマスターしないといけないなと考えるようになりました。
統一企業グループでの打ち合わせ
丹下都市建築設計で台湾の設計業務をしていた時のクライアントの一つに、統一企業グループがありました。紡績業で成功し、今は流通業、不動産開発、食料加工、カフェブランドなどの経営を行っているコングロマリットです。
丹下事務所が請負ったのは、この企業グループの本社ビルの設計です。設計の打ち合わせは、グループ内のディベロッパー会社である、太子建設と行っていました。
この企業グループは台南で起業しており、"台南幫"とも呼ばれています。このグループでは、社内の共用語が台湾語でした。我々日本の会社と打合せをする際に、通訳者や僕は中国語しか話せないので、それに合わせてくれますが、会議中彼らが内輪で話す会話、或いは宴会などで話す言葉は、基本台湾語になります。これが彼らの母語なのでしょう。
この場合も、台湾語が分かれば色々なコミュニケーションが取れるのにと、次第に台湾語を勉強することのモチベーションが湧いてきました。
池袋教会、台湾語教室
台湾で4年ほど暮らした後に、家内と生活の場を東京に移すことになりました。僕は大学時代から生活をしていたホームタウンに戻ってきたわけです。家内は逆に新しい生活環境に入り、日本語をボランティアから学ぶとか、アルバイトを始めるとかし始めました。
そんな中、家内が東京で台湾語を教えてくれる教室があるらしいと話しを持ってきました。同じ様に東京で日本語を学んでいる台湾人のネットワークからの情報だった様です。
僕は、台北では仕事で精一杯で、台湾語を学ぶ機会はなかったのですが、東京にそんな教室があるなら行ってみようと参加することにしました。
この台湾語教室は、池袋にある台湾教会で台湾人の先生が開いているものでした。先生の名前は林道さんと言います。僕が教室に通い始めた時には70代くらいだったでしょうか。白髪の小柄な女性で、日本語、中国語、台湾語を駆使して台湾語を教えてくれていました。
この頃、日本で台湾語を教える場所は他になかった様に思います。広東語は、香港の映画や歌が人気があることから、教科書や日常会話の本がありましたが、台湾語については全くありませんでした。ですので、この教室で教える台湾語というのは、台湾に来る宣教師のために造られた、アルファベット表記の教科書によるものでした。
教える場所も台湾教会。この教会で台湾にやってくる宣教師に教えるための台湾語の教科書を使って、日本にいる台湾語の学習者のために、教室を開いてくれていたわけです。
教室は初級班と中級班に分かれて、土曜日の午後に毎週行われていました。僕は、延べで4年ほどこの教室に通ったので、当初初級班から初め、後に中級班に進みました。学生は、初級班では10人以上20人以下くらい、中級班は10人以下という人数でした。
初級班は発音の基礎から、アルファベットによる台湾語の教科書の学習、中級班は長くこの教室に来ている人間が多いことから、生徒が自ら教材を準備したり、テレビドラマのヒアリングをして勉強しました。
この台湾語教室に通ったのは、40歳前後の4年ほどなのですが、この特殊な教室に通った同窓生とは、今でも連絡を取り合っています。林道先生が病気で入院した際には皆でお見舞いに行きましたし、亡くなった際の葬儀にも連絡がありました。
仲間のうち何人かは台湾に住んでいるので、たまに会っています。
台湾語は難しい
この様にして、台湾語の教室に参加して基礎の勉強をし、今の職場でも台湾語を耳にすることはしょっちゅうあります。台湾語まで勉強している日本人は珍しいので、そんな意味でも台湾人は僕に親近感を持ってくれています。
台湾人がよく使う表現に"接地氣"という言葉があります。"地の気に接している"、他に足をつけているというニュアンスでしょうか。僕はこの言葉には映画"グラディエーター"で、主人公が地面に手をつけて、そのエネルギーを感じとっている、そんなイメージを持っています。
台湾人が言うには、僕は"接半個地氣"なのだそうです。半分足を地につけている。それは、台湾語の世界を少し知っていると評価してくれているのだと思っています。
その様にして僕は台湾語を勉強してきましたが、実のところまだ十分に会話ができるわけではありません。この言葉を学ぶことには、いくつものハードルがありました。次の記事では、そのハードルのことを説明してみます。