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アメリカが台湾に持ち込んだもの

日本人は、日本統治時代の日本人が台湾に残したものにスポットを当てて評価する傾向があります。その様な視点で様々な宝探しが行われるので、ある意味それは当然なことです。

ここでは、日本ではなくアメリカの影響が強く現れていると僕が考えている、台湾の事物を紹介してみます。これは、特に第二次世界大戦後、蒋介石の国民党政権が台湾に移ってきてから以降の話です。

中華民国は、第二次世界大戦の戦勝国であるために、自律的な政治を運営することができていたのだとずっと思っていたのですが、実のところそうではない。アメリカの強い影響のもとに、国民党は政権運営をしていたのだと今は考えています。その影響下、台湾に持ち込まれた様々なものを、思いつくままに紹介してみます。

マンゴー

現在の台湾で最も競争力のある農産物に、マンゴーがあります。実は、これがアメリカから導入されたものなのだそうです。
"台灣如何進入大芒果時代"と題した記事があったので、その内容を紹介してみます。

台湾マンゴーの系譜

二戰之後:美援時代引進「美國種」 開始大規模種植
二戰後的臺灣,在國府遷台後接受美國援助,當時農復會(農委會前身)即為美國與中華民國政府合作的組織,也不意外的從美國引進農牧業的物種。雖然芒果也並非美國原生物種,但美國佛羅里達州卻是相當重要的芒果選育產區,廣為人知的愛文即為於佛羅里達發現的品種;而在這批「美國種」引進臺灣後,臺灣隨之開始大規模種植芒果的時代。

"台灣如何走進大芒果時代"より

「第二次世界大戦後:アメリカ援助の時代に「アメリカ種」のマンゴーを導入して以降、第二次世界大戦後の大規模栽培が始まりました。中華民国政府は、台湾にやって来て以降、アメリカの援助を受け始めました。当時の農業復興会(農民委員会の前身)は、アメリカと中華民国政府が協力した組織でした。ですので、アメリカの農産物を導入したのは意外なことではありません。マンゴーはアメリカ原産の果物ではありませんが、アメリカのフロリダではマンゴーがとても重要な農作物でした。今、最も人々に知られている"愛文マンゴー"もフロリダで開発された品種です。これら「アメリカ種」が導入されて以降、台湾の大規模なマンゴー生産の時代が始まりました。」

上の図を見ると、マンゴーはオランダ時代にも、日本統治時代にも導入されています。しかし、現在市場に出回っている競争力のあるマンゴーは、アメリカから導入されたものと、その後に台湾で改良された品種が主となっているということの様です。

"愛文マンゴー"という言葉は、英語の"Irwin mango"の音訳です。

七面鳥(火雞)

台湾のローカルグルメに、"雞肉飯"があります。この料理は、嘉義に行くと"火雞肉飯"がより有名です。"火雞"と言うのは"七面鳥"のことです。
何故、嘉義では七面鳥が使われる様になったのかというと、ここにもアメリカが関わっていたのだそうです。

根據地方耆老說法,二戰結束之後許多駐台美軍(主要為美國空軍)駐紮於此地區,美軍將火雞帶入之後,由嘉義附近地區養殖戶大量繁殖。因戰後各項物資缺乏,一般人要吃雞肉不容易,火雞較大,相對於土雞價格也低,營養價值也高,地方小吃攤想到用火雞當作小吃食材,因此做出類似滷肉飯之雞肉飯料理。傳統南台灣多拿雞胸肉蒸熟剝成雞絲或雞片鋪在飯上、澆上醬汁稱作雞絲飯雞片飯

Wikipediaより

「土地の古老の話によると、第二次世界大戦終結後、多くの在台アメリカ軍(主に米空軍でした)がこの地に駐屯していました。アメリカ軍が七面鳥をこの地に持ってきて以降、嘉義地方で多くの農家が大規模に七面鳥の養殖を始めました。戦後の物資の欠乏していた時期、一般の人は鶏肉でさえなかなか食べられませんでした。そんな中、七面鳥は地鶏よりも安価で栄養価も高かったので、地方の屋台が食材として七面鳥を使おうと考えました。そして魯肉飯の豚肉を鶏肉に置き換えた料理が生まれました。伝統的に南台湾では、鳥の胸肉を蒸して、細切り或いは小間肉にしてご飯にのせ、これにタレをかけて"雞肉飯"または"雞片飯"として食べます。」

アメリカ軍が持ち込んだ七面鳥を食材として、雞肉飯ができたと説明していますね。

化学肥料

これは、テレビドラマ"茶金"の描写にあったものです。ドラマの主人公は、アメリカ籍の農業技術者で、台湾にアメリカの技術を導入する仕事をしていました。そのなかで、最も大きなイベントが化学肥料の工場の設立でした。

台湾の光復により日本人が台湾を離れた後に、アメリカによる経済援助の時代が始まります。これは中国語では"美援"と呼ばれています。この経済援助政策の中に、近代的な化学肥料の導入があったという描写がなされていました。

ネットの情報の中に、下記の様な記事があったので訳出してみます。

民國40年3月9日,第一批美援鉀肥7,600公噸,由「巴灣」輪直接由美國運抵基隆港。美國經濟合作總署中國分署(Economic Cooperation Administration, Mission to China,簡稱ECA)宣布:「該署自歐洲西德、比利時等地購運來臺這批鉀肥,是臺灣10年來首次輸入的肥料。」農復會農業專家表示:鉀肥主要功效是使稻莖強壯,藉以改良作物品質,增加作物抵抗風害和病害的能力。鑒於多數農民尚未使用,同時為了增進農民使用鉀肥的知識,農復會已大量繪印施用鉀肥的掛圖,計畫普遍分發到農村各地以增加生產。

國家文化記憶庫計畫より

「1951年3月9日、初めてのカリウムによる化学肥料7,600トンが、貨物船「Bawan」丸によって、アメリカから直接基隆港に運び込まれた。そして、経済協力局(Economic Cooperation Administration, Mission to China,略称ECA)は次のように宣言した。「当局が西ドイツやベルギーから台湾に持ち込んだこれらの化学肥料は、台湾でこの10年間に初めて輸入された肥料である。」農業復興委員会の専門家は次のように言っている。カリウムの肥料の主な機能は稲の茎を強くし、作物の品質を改良し、風害や病害に対する抵抗力をつけることである。当時、多くの農民はこの様な肥料を使ったことがなかったので、化学肥料に対する教育も行った。農業復興委員会は大量の化学肥料に関するポスターを張り出して、各地の農村で作物の増産を図った。」

日本統治時代にも農作物の改良というのは行われています。それに加えて、アメリカの農業技術もこの時期導入されたということでしょう。

Wikipediaによる"Economic Cooperation Administration"の説明

建築師の制度

台湾の建築師の制度については、以前4回に渡ってその歴史を説明しています。

日本統治時代、台湾内部で建築師を教える高等教育機関はありませんでした。かろうじて、1945年に台南の成功大学の前身である"臺灣總督府臺南高等工業學校"ができました。そして、建築を教える教育課程が作られましたが、同じ年に日本の敗戦となってしまい、卒業生はいません。

そして、中国大陸から来た建築技術者、アメリカで教育を受けた建築技術者が主体となって台湾の建築師の制度を作っていきます。その中で主要な役割を果たしたのはアメリカの大学との協力、アメリカの建築技術者を招いての大学教育でした
その様な理由で、現在の台湾の建築建築教育のメインストリームは、アメリカンスタイルなのだと僕は考えています。

スケジュール管理手法

このアメリカンスタイルの建築工事の手法として、スケジュール管理のシステムを取り上げてみます。

日本の建築工事では、下図の様な、それぞれの工事の前後関係、ポイントとなるクリティカルパスを示した、どちらかというとアナログ的な図版として直感的な工程表を作成します。
日本で仕事をしていると、この工程表を見慣れているので、台湾の営造会社にもこの様な工程表を作ってくれとお願いしたりするのですが、彼らはこの様な工程表をつくったことがないので、作ることができません。

彼らは、アメリカのスケジュール管理ソフト、"Project"を使っているのです

日本スタイルのマスター工程表

下図がMicrosoftのProjectによるスケジュール管理のアウトプットです。このソフトの特徴は、業務に関係する日数と、業務開始日を入れ、その前後関係を表していることです。全体のスケジュールの重要度に鑑み、クリティカルな工程にポイントを絞って表現するのではなくて、とてもデジタルに網羅的に工程を入力します。

日本人はこのスケジュール管理表を見慣れていないので、直感的に分かりづらいところがありますが、台湾の営造会社やCM会社は、この"Project"による工程表しか作れません。そして、これはアメリカ仕込みのスケジュール管理手法です。

Microsoft Projectによるスケジュール管理

民主主義

台湾では日本統治時代にすでに民主主義への萌芽が見られます。
これは、大正時代の日本の自由民権運動の影響を受け、台湾でも台湾人自らの代議士を立てて、政治に参加しようという動きがでてきます。これは、台湾人が日本の統治を離れ独立しようというほど先鋭的な独立運動ではありませんが、日本の統治当局に治安維持の名目で厳しく取り締まられます。

次いで、国民党の中華民国がやってきた段階で蒋介石が行ったのは、一党独裁による強権政治でした。この政権の下では、日本統治時代に培われた自治の思想は政府に対する反乱とみなされ、この場合は大規模な粛清事件に発展します。白色恐怖の時代とも呼ばれています。

この植民統治から強権独裁の時代を経て、台湾は民主主義の時代に移ります。この変化を中華民国内でリードしたのは李登輝でしょう。僕は、この蔣經國から李登輝への権力移譲と、それに引き続く政治の民主化の過程には、アメリカの強い影響力があるのだろうと考えています。

1987年に蔣經國が戒厳令を解除、その後李登輝が台湾の民主化を推し進め、1996年に台湾初の国民選挙により総統選出が行われます。
李登輝が政権の中心に立ち、民主化を推し進めるこの経過に、個人的にとても納得できないものがあるですが、李登輝の背後にアメリカ政府の後ろ盾があり、それを背景に台湾の民主化とアメリカへ化を推進したのだと考えれば、もろもろ腑に落ちるところがあると考えています。
台湾の民主化は、台湾人自らが推し進め勝ち取った果実であるのはもちろんですが、その過程におけるアメリカの影響は少なくないのだろうと思っています。

軍事システム

中華民国の現在の軍隊は、どのようにして成立したのでしょうか。このことを考えると、ここにもアメリカの影響を想定せざるを得ません。

中国大陸の国共内戦で、国民党は共産党に敗北し、次第に南方に追いやられ、最後には蒋介石が四川省重慶から台湾にやってきます。国民党のリーダーはこの様に逃亡してきましたが、一般の兵士はどうなったのでしょうか、軍隊の手元にあった武器はどうなったのでしょう。
そんなことを考えると、国民党軍は大陸にあった陸軍の武器をほとんど放棄し、手持ちの飛行機をできるだけ台湾に飛ばし、軍艦もあるだけ台湾に送ったのだと、そのように考えられます。
率直に言って、敗残した集団がほとんど近代的な兵器は持たず、手ぶらで台湾にやってきた、そのような状態だったでしょう。
幸いに、中国共産党には台湾海峡を越えて台湾に攻めてくることができるような海軍はありませんでした。海南島は海を渡るリスクが低いために、すぐに共産党の手に渡ります。香港は連合国のイギリス領であったために手が出せませんでした。
厦門対岸の金門島では、海を隔てての戦闘が繰り広げられましたが、共産党はこの戦いに勝利を収められませんでした。そのため、金門島は現在でも中華民国の統治範囲になっています。中国共産党の海軍の力はそのようなものでした。

当初、アメリカは国共内戦には関与しない方針でしたが、朝鮮半島が勃発すると、アメリカは台湾の中華民国政府を共産政府に対する防波堤にしようと政策を改めます。そして、ここからアメリカの台湾に対するさまざまな援助が始まります。
それは経済援助に限らず、アメリカの軍隊が台湾に駐留し、共産中国に対する抑えとなり、またベトナム戦争に軍隊を派遣する際の駐屯地となりました。
この様な状況の変化の中で、中華民国の軍隊はアメリカ軍の協力のもとに近代化し、現在のような軍備を装備するに至っているのだと考えています。

このことについては、国際政治の変遷と現在の中華民国の軍備を見て考えたことなので、詳細はこれからまた勉強していこうと思っていますが、現在の中華民国の軍隊がアメリカ軍の強い影響下にあるというのは否定できないことだと思います。

アメリカの強い影響下にある台湾

僕が思いつく範囲でさえ、このような様々なアメリカの影響を考えられます。詳しく調べると、きっとさらに広範な局面でアメリカの影響を受けているに違いありません。

日本統治時代の台湾への影響は、その多くが目に見える形で残っています。台湾総統府の建物や、烏山頭ダムなど。建築や土木構造物など具体的なものなので、その影響を実感しやすい。
それと比べると、アメリカ文化の影響というのは、見てはっきりそうだと分かるものが少ない。農作物やソフトウェアに関わるもの、政治思想などです。しかし、これらは現在の台湾を形作っているとても重要な要素であるように思います。

現在の台湾がアメリカと親和性が高いと思われるのは、何も偶然ではない。第二次世界大戦後のアメリカによる様々な援助や政策が、現在の台湾を形作っているのだと考えています。

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