【台湾建築雑感】台湾建築師の歴史(その四)
「誰是建築師? 臺博館辦展回顧二戰後臺灣現代建築師制度的演變」の展覧会の内容に基づいた、台湾の建築師の歴史を説明する第四回です。今回は、アメリカの顧問により法規の整備が行われていく過程を説明します。
前回までの説明は、下記のリンクでご覧ください。
6-2 設計事務所だけが唯一の仕事ではない
「建築設計事務所、恐らく大部分の人が建築師の仕事をする場所として思い描く職場です。しかし、戦後初期の人材が払底している状況では、相当数の技術者は公共機関で職につき、業務を行っていました。それは建築専門の技術者も例外ではありませんでした。
多くの公営事業組織、例えば鉄道局、道路局や電力会社などは、いずれも自らの営繕・建設部門を持ち建築専門技術者を雇って設計業務を行わせていました。例えば、修澤蘭建築師は台湾に来た当初、鉄道局で働いていましたし、黃寶瑜建築師は電力会社の土木建築家の課長でした。これらのインフラストラクチャーの整備のために設立された公共機関は、台湾の戦後の建築の歴史の発展に大きな役割を持っていました。」
僕の卒業して初めて勤めた建築設計事務所でも、開設した建築士は元々逓信省で仕事をスタートさせていました。日本と台湾で、同じ様な歴史的経過を辿っているのだなと感じました。
6-3 専門職の意識の芽生え
「建物は、生活の要求を満足させるという実質的な機能の他に、「建築設計」により設計者の個人的な意思、或いは国家の政治意識を体現するものとなっていきました。アメリカによる援助により、だんだんと「建築師」の役割を強化すると共に、建築設計者が建築設計の基本的要求を満足させると共に、「建築設計」の価値を表現する様になっていきました。
「モダニズム」思想の影響のもと、どの様に中華文化という課題に取り組むかということが、建築設計者の報酬とは直接関係のない使命となりました。1960年台の後半から、いくつかの重要な公共工事のコンペにおいて、具体的に「建築設計」において建築師は国の権威を示す様に示され、「建築設計」によってデザインされた図面と実際の空間が抽象的な国家の意思を示すものとなりました。このようにして「建築」という言葉は単なる専門技術者だけを意味するものではなくなりました。」
日本では建物デザインのコンセプトを重視しますが、この言い方では台湾では国の威信を示す、まるでナチスのファシズム建築の様なものと感じられます。これは、蒋介石の時代に建てられた、國父紀念館や圓山大飯店の様な建物のことを言っているのでしょう。単なる建物ではなく、中華の威信をデザインとして示す。その様な時代があったのでしょう。
6-4 建築とは単に建物を建てるだけではない
「第二次大戦後、政府の発注する公共建設以外、その他の大部分の建築行為は民間による様々な要求による建物の建設でした。経済の安定と社会環境の進歩に伴い、政府は国際連合顧問団の見解を通して、土地の有効な利用を意識し始めました。そして、都市発展計画を進めるため、《都市計畫法》を修正し、合わせて《區城計畫法》等を制定しました。
1967年行政院経済合作協会の都市建設及び住宅計画グループは《台北基隆都会区域と新コミュニティー発展の研究》を出版しました。その中で台北の市街地30kmの範囲に都市を拡張し、新たに「自足的新市街」を開発する地点を示しています。そして、その都市の拡張を、都市計画によって行うという新しい仕組みを生み出しました。
1970年代、中原大学建築学科汪其樂らが、経済合作協会を通して、都市計画の授業を行いました。そして、1971年成功大学建築学科の王齊昌、黃秋月らが都市計画研究グループの研究を基礎にして、成功大学都市計画学科を設立しました。この様にして「建築専業」を拡張し、さらに複雑な分業状態を形成していきました。」
6-5 建築師は単なる技術者ではない
「1966年、内政部は行政院の批准した行政院経済合作協会により、建築法規定研究グループを設立しました。そして長年《建築法》が未改定であったことにより発生していたさまざまな困難、《建築師管理規則》の法的有効性が不足している等の問題に取り組み、そして1971年に公告実施をしました。
行政経済合作協会の建築顧問ムーア (John C, B. Moore) 氏は、1972年1月に《台湾地区建築及び建築教育に関する調査報告》を提出し、その中で台湾の戦後以来の建築業に対する全面的な経験に対し、いくつかの提言をしました。それは、建築の大学教育を5年制に変更する、政府が建築師協会に設計費用の標準を定めることを認めるなどの内容を含んでいます。
政府と経済合作協会顧問の努力の元、法規の改正や顧問の報告と提案などにより、だんだんと建築師が「建築設計」を専門業務の核心とし、建築師の業務を法規上も他の工業技師の制度とは別のものとする仕組みが整いました。」
ここに示されているアメリカによる関与というのは、この時代の特徴なのでしょう。それが法規の改正、新しい都市計画の考え方を台湾にもたらされている。台湾に対するアメリカのの影響というのは、単なるデザインや作図方法にとどまらず、国の根本を定める法律の制定にまで及んでいる。それは、日本がアメリカに占領されていた状態とは異なり、中華民国は戦勝国であった為、形は異なっていますが、隠然たる影響力を持っていたのだと感じました。
6-6 歴史の転換点にて
「1970年、日本では「人類の進歩と調和」をテーマにした万国博覧会が大阪で開かれました。そこでは、丹下健三や磯崎新といった人たちが会場全体と様々なパビリオンあるの設計を担当しました。これは建築業界としても一大イベントであり、中華民国が「中国」を代表として参加した最後の万国博覧会でもありました。
「中華民國館」はその名称の意義の他にも、これが《建築師法》が施行されるに際し、最後に台湾を代表する建築が国際舞台に登場したという大事件でもありました。この中華民国館は、公開コンペにより設計者が選出され、I.M. Pei事務所の参加したAtelier Cambridge チームが設計と監理を担当しています。
その中には、陳邁、熊起瑋、華昌宜、白瑾、朱鈞、費宗澄及び李昶原の7名のアメリカ留学生により結成されたAtelier Cambridge チーム、そして、I.M. Pei事務所においてこのプロジェクトを担当した彭蔭宣などがいました。彼らは皆、後の台湾現代建築の発展に大きな影響力を発揮した面々でした。そして、それは1945年から発展してきた台湾の現代建築が、初期の成果を有し、さらに次の時代に羽ばたくという画期を示していました。」
この記事の表紙にあるのが、大阪万博で建設された中華民国間です。この時に、I.M. Pei事務所を筆頭に台湾の若い建築家たちが集まった。そして彼らが、続く台湾建築の新しい時代を切り開いていったのだと、そういうことですね。
この展覧会の内容は、1970年の万国博覧会の時期までのストーリーで終わっています。今は2023年ですので、それから既に半世紀以上経っています。戒厳令が解かれ民主化が進み、それまでとは全く異なった環境の中に、台湾の建築業界は置かれているはずです。
この様な建築界の歴史を大きく把握しておくことは、今の台湾の建築技術、法規、業務内容がどの様な状態に置かれているのか、それを知るガイドになると、その様に感じました。
その後の半世紀、台湾の建築界がどの様に変わってきたのか、その様な記事があれば、また紹介しようと思います。
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