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【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第六章~ (8)

(8)


「おい! 宮田! 中村! しっかりしろ!」


 海老原の声に意識が混濁していた宮田はようやく目をあけたが、中村は完全に気を失っていた。激痛がして頭に手をあてると、べったりと血が付いていた。


「海老原さん……一体何が起こったんです?」と口を開いた宮田はガソリンの臭いに激しくむせた。


「今は詳しく説明している時間がない。ただ、3番を殺そうとしている連中がいる。3番はなんとか逃げだしたが、ふたり、追いかけていった」


「なんだって」


 完全に目が冴えた宮田は、疼くような頭の痛みに顔を歪めたが、体を運転席のドアに向けると激しく蹴りつけ始めた。


「おい、あんまり無理するな」


「海老原さんこそ! なんで初華ちゃんを追わなかったんですか!」


「できるならそうしてる。だが、俺はここから出られん」


 後部座席のスライドドアと壁のあいだは、人がようやくぎりぎり通れるか通れないかくらいの隙間しかなかった。運転席側の後部座席のドアは、元々開かないつくりになっている。こんなときに車の構造が災いした。


「俺は救急車と警察を呼ぶ。こんな大事故だ。もしかしたらとっくに野次馬が呼んでくれているかもしれんが、お前は3番を追ってくれ」


「言われなくても、そうしますって!」


 言い終わるのと同時にドアを蹴破った。そとに飛び出ると、見覚えのある男が仰向けに倒れてうめき声をあげていた。確か、櫻木一桜の父親だ。なぜ彼がここにいるのかわからないが、それどころではなかった。
 事故の衝撃で折れ曲がった制帽と、血で汚れた上着を投げ捨てて宮田は走り出した。彼女がどちらの方角に向かって走っていったのかわからないが、幸いなことに目撃者は大勢いた。
 目撃者によれば、彼女と追跡者は商店街の方へ走っていったようだった。
宮田は全速力で駆けだした。


 とうの昔にサンダルをなくした初華は、冷たいアスファルトの上を素足で走っていた。
 手錠をしたままで走るのは非常に困難であるうえに、道行く人は彼女の姿を見て驚いた表情を浮かべる者や、二度見する者がたくさんいた。


「なにかの撮影?」
「おい、あれって」
「ちょ、見てあれ」


 すれ違い、追い越すたびにそんな囁き声が初華の耳に飛び込んできた。そして、彼女の姿を見たひとたちはその十数秒後に血眼で走る男二人を見ると同じ言葉を繰り返した。かと思えば、今度は警官のような格好をした男が声をかけてくる。


「おい! えっと、手錠をした女の子を見かけませんでしたか!」


 いったい何が起きているのかと怪訝な表情を浮かべては、男たちが走り去った方角へ足を向ける者もいた。
 横転した車の中で、おぼろげながら寺塚莉緒と望月陽葵の父親だという声が意識の遠くで聞こえた。きっと襲ってきたのは、初華が殺した被害者の父親だと宮田はすぐにわかった。おそらく、初華の両親は彼らが殺したに違いない。人をよけ、曲がり角でぶつかったサラリーマンに謝罪の声をあげながら宮田は走った。

 つまずきながらも走る初華の足の動きは、逮捕される前より明らかに鈍くなっていた。腕を振れないせいで余計に体力も奪われた。かつての身体のバネもなく、すっかり息も上がっていた。建物を曲がった瞬間に壁の隙間に潜り込んで、どうにか寺塚と望月をやり過ごすと、背中を壁に預けて息を整えた。


「わたし、いったい何から逃げてるんだろう……」


 息を弾ませながら独り言ちた。
 とっくに死ぬ覚悟はできていたはずだった。それなのに自分を殺そうとしている者から逃げてどうしようというのか。しかも相手は寺塚莉緒と望月陽葵の父親だ。なぜだかわからないが、一桜の父親も一緒だった。


 車から這い出たとき、莉緒の父親は血走っていた目で初華を睨んでいた。
 足がすくんで動けなかった。あれが「殺される側の恐怖」だと本能的に感じ取っていた。しかし、恐怖に心を支配されながらも、海老原の声で初華は咄嗟に走り出した。


「あの声……」


 あの声にどこか懐かしさを感じた。遠い昔に聴いた声。それで咄嗟に体が反応した。しかし、今の初華に記憶を辿る時間は残されていなかった。
 死ぬ覚悟なんて全然できていなかった。そうでなければ、きっとあそこで死ぬことができたはずだ。それなのに逃げ出した。


 莉緒はなにも知らないまま死んだ。
 日葵の恐怖にゆがんだ顔は血に染まった。
 心尊は燃え盛る炎のなかで初華を睨んでいた。
 一桜は哀しそうな顔を浮かべながら闇に消えていった。

 人を大勢殺しておきながら、それなのに、自分で命を絶つこともできなかった。あまつさえ、殺そうとしている者から必死になって逃げ延びようとしている。
 初華は、自分がいったい何なのかわからなくなっていた。
 壁からゆっくり体を起こすと、建物の壁伝いに奥の路地へとふらつきながら歩いて行った。来た道を戻ってきた寺塚は、ちょうど路地に抜けようとしている初華のうしろ姿を捉えた。


「いたぞ!」


 望月が確認しようとしたときには、寺塚はすでに走り出していた。
この狭い壁の隙間は、大人では通れない。反対側まで回り込む必要があった。しかし、土建屋の寺塚と違って望月は体力の限界だった。息を切らせながら「さすがに、もう無理だ」と独り言ちて視線を横に向けると、凄まじい勢いで走ってくる男が遠くに見えた。刑務官だと悟った望月は、身体を揺らして寺塚のあとを追った。

  目撃者のOLは、こっちに女の子と男二人が走っていった話していた。ことがことだけに少しでも道を間違えたらアウトだ。アーケードの途中で左に折れて居酒屋「花華」のまえを走り抜けようとした瞬間だった。
 メニューボードの陰から飛び出した男にタックルされた宮田は、そのままの勢いでゴミ入れ用のポリバケツに突っ込んだ。強い衝撃で頭の傷口に激痛が走ったが、アドレナリンが無理やり抑え込んだ。


「くそ、なんだお前!」


 宮田の脇腹にしがみついていたのは望月だった。これ以上初華を追跡するのは無理と判断して、足止めをすることに決めた望月は、この場所で宮田を待ち構えていた。


「すまんね! これ以上行かせるわけにはいかんのでね!」


「離せよ! この!」


 望月の腕を引き剝がそうとした宮田だったが、食い込んで離れなかった。


(まずい、このままだと彼女が――!)


 夢遊病者のように歩く初華の前に、肩で息をする寺塚が立ちふさがった。


「どうした? 鬼ごっこは、もう飽きたのか?」


 顔を上げた初華の顔が恐怖に凍り付いた。
   酷薄な笑みを浮かべる寺塚の手には、折り畳み式のナイフが握られている。


「なあ、もういいだろ。娘のカタキを討たせてくれよ。さんざん待ったんだ。おれにはよ、莉緒しかいなかったんだ。それなのに、おまえが殺しちまった。嫁だってとっくの昔に死んじまってる。わかるか? おまえに、おれのつらさが」


 初華を睨んでいた寺塚の顔は、悲哀に満ちた表情に変わっていた。
 にじり寄る寺塚に初華は一歩も動けずにいると、「そうだ」といってズボンのポケットをまさぐった寺塚は、スマートフォンを取り出した。


「おまえにも、家族の命を奪われるつらさってやつを教えてやるよ」


 スマートフォンを指で操作して動画を再生すると、画面を初華のほうに向けた。


〈見てるか? 阿久津初華〉


 画面に映っているのは寺塚の顔だった。しかし、周囲が暗いせいでよく見えない。どうやら撮影したのは深夜のようだった。動画の中の寺塚も見えづらいのがわかったのか、カメラのライトをオンにした。


〈今おれがどこにいるかわかるか? 阿久津初華、おまえに家族を奪われる苦しみってやつを教えてやるよ〉


 たったいま、初華に言った言葉と同じことをしゃべっていた。
 それから寺塚の顔が映ることは二度となく、手もとが映されていた。ポリタンクのキャップを開け、ガソリンが撒かれている壁を初華は凝視した。
 この壁、どこかで……。
  ガソリンが撒き終わると、画面が真っ暗になった。ジッポライターの音と、息をふぅっと吐く音が聞こえる。どうやら、寺塚は煙草を吸っているようだった。
 スマートフォンが持ち上げられて画面が激しく揺れ、寺塚が歩いていることがわかった。そして、カメラがうしろを振り向いたと同時に、煙草が奥に飛んでいくのが見えて、それが地面に落ちると瞬く間に炎が広がった。
 燃え盛る炎をみて、初華は驚愕した。スマートフォンを握る寺塚の顔は、さきほどよりも残忍な笑みを浮かべていた。映像がいったん途切れ、次の場面ではどこかの高い建物から撮影したのか、赤々と燃え上がる家と、けたたましくサイレンの音を響かせる消防車の赤い光が映っていた。

〈阿久津初華、見てるか、おまえのせいだぞ。おまえのせいでこうなった。馬鹿なやつだよ。おまえは、本当に。きっと心尊ちゃんもあの炎の中で苦しんだんだろうな。彼女の親御さんもな。おまえのせいでみんなが不幸になったんだよ。わかるか? おまえの両親は、おまえが殺したんだ〉

 ここで動画は終わっていた。
 スマートフォンをおろす手の動きにつられて初華の顔も動いた。


「ニュース、見ていなかったのか? 拘置所じゃ、ニュースは見れないんだったか」


 顔色が真っ青になった初華を見て、寺塚は口角をゆがませた。


 ……死んだ?
 わたしのせいでお父さんとお母さんが死んだ? 
 そんな、まだふたりになにも話していないのに。
 ちゃんと、謝ってもいないのに、
 もう、会うことも、話をすることもできないなんて、そんな……。
 全身の血が抜けてしまったように青ざめた初華が膝から崩れ落ちると、寺塚は満足そうな笑みを浮かべた。


「わかったか? 家族を奪われる苦しみってやつが。だったら、いまおれがおまえをどうしたいのかも、わかるよな?」


 ナイフを持った手をぷらぷらと揺らしながら、寺塚は悠然とした足取りで初華の前に歩み寄った。項垂れた初華の目に寺塚の汚れたスニーカーが映っていた。


 おとうさんとおかあさんがしんだ……
 わたしのせいで……わたしのおとうさんとおかあさんが……わたしの……
 寺塚が初華の肩口を足で蹴押すと、初華は壊れた人形のようにスファルトに身を投げ出した。
 眩しい朝日が目に飛び込んだ初華は目を細めた。
 背中に朝日を浴びた寺塚は「黒い影」になっていた。
 あのときも、西日が暑くて眩しかった。そして、黒い蟲が……。
 蟲……蟲……ぐちゃぐちゃする。頭の中が。
 わたしの大切な「おもちゃ」はだれにもゆずりたくない。
 ゆずったら、あきらめないといけないから。でも、あきらめたくない。
 だって、わたしのモノなんだから。
 おとうさんだって、おかあさんだって、わたしの……頭が……ぐちゃぐちゃする。

 ――蟲は、つぶさなきゃ。蟲は、害虫、だからね。

 初華は、笑っていた。
 さめざめと涙を流しながら。
 倒れた初華に馬乗りになった寺塚は、ナイフを逆手に持って振りかざした。

「離しやがれ! この!」


 なんとか拘束をほどいた宮田は、望月の顔面に渾身の力でこぶしを叩き込んだ。
 望月はよたよたと酔っぱらいのようにふらつきながら、背後のメニューボードに寄りかかって派手な音を立てながら倒れた。ひさしぶりの感触にかつての血が騒いだ宮田だったが、すぐに冷静さを取り戻して駆け出そうとしたときだった。
 つんざくような悲鳴に一瞬足をとめると、路地に向かって指をさしながら慄く女性に目が止まった。まさか、と顔を強張らせた宮田は走り出した。
女性のそばにつく頃には足をとめる野次馬も増えていた。ショックを受けたのか、しゃがみ込んで嗚咽を漏らす女性の背中を連れらしき女性がさすっていた。野次馬の視線の先に目を向けると、男と女が倒れていた。
 弾かれるようにして走り出した宮田だったが、倒れているふたりに近づくにつれ、ゆっくりとした歩みへと変わっていった。


「初華ちゃん……」


 宮田は歩みを止めると、肩で息をしながら呆然と初華を見下ろした。
 悲痛な叫びに振りむくと、そこには警察官を引き連れた海老原が立っていた。
 救急車のサイレンの音が、遠くから木霊した――――。 


初華 死刑を求刑された少女 ~終章~ に続く

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