【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第六章~ (6)
(6)
2026年2月3日
判決が下される日
爽やかな起床の音楽で目を覚ました初華は、むくりと身体を起こした。
ずっと微睡んでばかりいて、あまり眠った気がしなかった。
「今日は天気がいいみたいだなぁ」
窓の色は、清々しいほどに青かった。
拘置所に入所したときに一度だけ使った練り歯磨きをもう一度使ってみたが、やっぱりこの味は好きになれそうになかった。
朝食を終えた初華は、壁に掛けられている箒とちりとりを手に取って掃除をした。
3室を汚してしまったから4室へ移動したけれど、長いあいだこの部屋は使われていなかったのか、ホコリがかなり溜まっていた。もちろん、トイレも綺麗に掃除した。掃除がおわり、一息ついて私物棚に手を伸ばそうとした時だった。
「3番。もうすぐ時間だから、準備やトイレを済ませておくようにな」
杉浦の声だった。初華は伸ばした手を戻すと、名残惜しそうに棚を見つめた。
「1ページだけでもいいから、もう一回読みたかったな……」
そういえば、あれだけうるさかった工事の音もいつの間にかしなくなっていたことをなぜか思い出した。結局、なんの工事だったのかわからずじまいだった。
杉浦に連れられて三階に差し掛かかると、独居房のドア窓からこちらを覗き見ている視線に初華は気がついた。光り輝くスキンヘッドにがっちりとした体。金ぶちの眼鏡をかけた男。初華が「つるぴかさん」と呼んでいる14番だった。
初華は14番に向かってはにかむと、小さく手を振った。眉尻を下げて哀しげな表情を浮かべた14番は、大きな手を小さく振り返した。杉浦に呼ばれ、深々とお辞儀をしてから階段を降りていった初華を見送った14番は、心の中で激しく憤った。
3番がしたことは、絶対に赦されることじゃない。
だけど神様、いくら何でもこれはあんまりじゃないか。
なぜ、あの子が人を5人も殺さなきゃいけなかったんだ――。
事務所に入ると同時にミニバンが到着して、車庫のシャッターが下りる音が聞こえた。舎房着からスウェットとジャンパーに着替えるように指示を受けた初華は、服を受け取るとシャワールームに入った。事務所には小さなシャワールームがあって、女性の場合はそこで着替えるようになっている。
着替えが終わってシャワールームを出ると、海老原、宮田、中村がせわしなく動き回って撮影の準備をしていた。被告人は出廷の前に写真撮影を行う決まりになっていた。初華は撮影場所に立ち、正面、横、うしろの写真を撮影した。
携帯用プリンターから出てくる自分の写真を見て、初華は少し痩せたなと思った。
「緊張するか? 3番」
初華の手首に手錠を嵌めながら、海老原は尋ねた。
「え、あ、うん……」
顔を強張らせてぎこちなく答える彼女に、海老原は沈痛な面持ちで手錠に視線を落とした。こんな時にかけてやれる言葉がなにも思い浮かばないのが情けなかった。
これが軽犯罪者であれば「刑務所はここほど優しくはないぞ」とか「どうせ執行猶予だろうから肩の力を抜け」と軽口も言えるのだが、彼女の場合はそういうわけにもいかなかった。
初華は、この数日で変わったなと海老原は思った。
きっかけは宮田であったことは間違いなかった。まったく、調子のよさとツラ構えだけが取り柄だと思っていた若造に先を越されるとはおれもヤキが回ったなと海老原は思った。
この一年半のあいだで、初華に何をしてやれたのだろうかと振り返る。
初華が5人の人間を殺害したということをニュースで知ったときは我が目を疑った。家を出てから一度も会うことはなかったが、初華のことを最悪な形で知ってしまうことになったのはあまりにもショックが大きかった。やめた酒に危うく手を伸ばしそうになったことが何度もあった。
裁判までのあいだ、このY拘置所で初華の身柄を拘束することが決定したとき、拘置所の皆に初華との関係について事情を説明し、「海老原」という名で呼ぶように協力を仰いだ。事情を理解してくれた所長にも感謝の言葉しかなかった。しかし、「あの事」については伏せておいた。実の娘に手を出したなどと、口が裂けても言えるはずがなかった。
皆川と宮田は初華が入所したあとに来た人間だったが、二人にはあえて海老原と初華が親子であることを伝えずにいた。口の軽そうな宮田に教えると、娘に話してしまいそうで信用ならなかった。海老原龍二ではなく、初華の実の父親である、花苑一(はなそのはじめ)だということを。
もっとも、この間の宮田の姿を見る限りではそれも杞憂だったのかもしれない。人は見た目ではわからないものだ。
50も手前になると、離婚当時とはすっかり体形も変わっていた。忙しく歩き回っていた営業の仕事とは違って刑務官というのは体を動かすことがあまりなく、おかげで腹の主張が激しくなった。しゃべり口調も田舎の訛りに戻した。しかし、右手の傷でバレてしまうおそれがあった。苦し紛れではあったが、サイズの合っていない制服を着用して無理やり手が見えなくなるようにした。まるで服に着られている小学生のような見た目になってしまったが、我慢した。娘には「おかしなおじさん」と思われていたに違いない。
娘には何としても知られたくなかった。忘れていてくれるなら、有難いとすら思っていた。実際、ここまで娘にばれている気配はなかった。しかし、それはそれでそこはかとなく寂しい気持ちにもなった。
そして昨日の火事――。
娘の初華を残して華永は今の夫とともに逝ってしまった。それを娘の初華は知らない。正直、火事のニュースを見たときは気が狂うかと思った。しかし、中村と宮田の手前、なんとか堪えた。これが自宅だったらそうはいかなかっただろう。身内の不幸を二度もニュースを通して知らされるというのは、身が切られる思いだった。
もとを辿れば、娘の人生を狂わせたのは自分の責任だと海老原は自分を呪った。
そうでなければ華永は今も生きていて、初華は普通の暮らしをしていたはずだ。それなのに今は刑務官として実の娘を絞首台送りにしようとしている。ここまでひどく滑稽で馬鹿な話が他にあるだろうか。出来の悪いB級映画だとしてもちっとも笑えない。
「すこし、痩せたか?」
以前よりも一段下げて手錠をロックすると海老原がつぶやいた。
「そう、なのかな? でも、胸は痩せた感じがしないよ?」
そう言って悪戯っぽく笑う初華に海老原は目尻に皺を寄せた。
(実の娘に手錠を嵌めて、俺は一体なにをやっているんだ?)
「できたか? 宮田」
「OKです」
海老原が問うと、腰紐を縛っていた宮田が返事をした。
「よし、じゃあ、行くか。中村、運転を頼むぞ。杉浦は留守、よろしくな」
「わかりました」
海老原が敬礼をすると杉浦は正対して返した。
車庫へと続くドアが開けられ、まずは海老原がでた。何気なく事務所の中を見渡していた初華は、名札をかけるボードに目が留まった。
現在出勤していない職員の名札は「裏」向きになっていて、出勤している職員は「表」向きになっていた。初華はひとつひとつ、表向きの名札に目を通した。
宮田くんって、宗一郎って名前なんだ。完全に名前負けしてるなと思った初華は、心の中でくすりとした。他の刑務官の名札も目を通したが、一人だけ、なんと読むのかわからなかった。初華は頭を捻ったが、ドアをくぐった瞬間に名前のことは忘れていた。
いよいよ、判決が下される。
~第六章~ (6)の登場人物
阿久津初華(あくついちか)
私立聖フィリア女学院の生徒とその家族を殺害して死刑を求刑された少女。
少年犯罪で、20歳未満の少女に死刑が求刑されるのは戦後初。
海老原(えびはら)
Y拘置所の刑務官。最年長。下ネタ好きで四国訛りがある。初華のことを気にかけている。
宮田宗一郎(みやたそういちろう)
Y拘置所の新人刑務官。お調子者でイケメン。父親は自殺し、母親は失踪したことにより一家離散した。少年鑑別所の職員との出会いで、刑務官の道を志すようになる。
杉浦(すぎうら)
Y拘置所の刑務官。長身で眼鏡をかけている。主に面会人の受付や、差入品の授受を担当している。
中村(なかむら)
Y拘置所の刑務官。体育会系。事務仕事も担当している。それにあわせて、パソコン教室にも通いはじめた。
14番(じゅうよんばん)
初華がつるぴかさんと呼ぶ受刑者。かつては少年鑑別所の職員だったが、事件を起こして実刑判決をうけ、服役している。
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