【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第二章~ (6)
(6)
目を覚ましたわたしは、黒いヒビのはいった天井をじっと見つめていた。寒いはずなのに、全身はじっとりと汗をかいていた。窓に視線を向けると、濃い灰色だった。雨の音が聞こえる。今は昼の3時頃だろうか。
むくりと起きあがった瞬間に嫌な感触を思い出して、太腿を強く叩くように払った。小学生の時にポトリと足に落ちてきた黒い毛虫を払った時のように。
――気持ち悪い。
「……しばらく見ていなかったのに。また、なんで」
思わず呟いた。重い。綿の詰まりすぎた掛布団が煩わしくなって苛々したわたしは、布団を力任せに蹴って這い出た。かいた汗が一瞬で冷えて身体が震えたが、〝蟲〟がもぞもぞと足を這いまわっているような感じがまだ残っている気がしてとても不快だった。
〝蟲〟を払ったせいで手が汚れている気がしたわたしは、洗面台の蛇口を捻って、冷たい水に手を曝した。突き刺すような水の感触がすべての感覚を麻痺させて〝蟲〟を消し去ってくれる気がした。痛いくらいに、爪をたてて激しく手を擦った。
ふと、顔を上げて鏡に映る自分の顔を見た。長く伸びた前髪が顔の半分を覆っていた。映っているのはわたしの顔なのに、わたしの顔じゃない気がした
「3番」
背後から声を掛けられたことに驚いたわたしは、ビクッと肩を震わせて振り向いた。いつの間にか視察窓が開いていた。
誰? 長く伸びた前髪で目が塞がっているのと、廊下が暗いせいで視察窓の外がよく見えない。睨むように視察窓を凝視した。
「水は大事に使おうな。住民の人が税金を納めてくれるから、水を使わせてもらえるけん」
鏡の上の〝水は大切に使いましょう〟と書かれた張り紙を見て、もう一度声の主のほうを見てからゆっくり蛇口を捻って水を止めた。タオルで拭った手は、血で染まったみたいに真っ赤になっていた。
血。真っ赤な……。
血で染まって、真っ赤になった、手……。
「怖い顔をしてどうした? 何かあったのか?」
そんなに強く睨んだつもりはなかったけれど、今のわたしはそんなに怖い顔をしているのだろうか。
「なんでもない。それより、何か用?」
素っ気なく返すわたしに海老原さんは何か言おうとして、喉に痰が絡んだような咳をした。
「3番に面会だ」
面会の言葉を聞いた瞬間に心臓が大きく跳ねた。
面会? 誰が? 道重先生? それは違う気がする。
先生とは一昨日会ったばかりだ。それとも何か伝え忘れたことがあったのだろうか。先生以外でわたしに面会人なんて――。
「誰?」
わたしが尋ねると、視察窓から「ぬっ」と手が伸びた。明かりの点いていない廊下(節電のために消灯している)は暗く、独居房の蛍光灯に照らされた手は、そこだけがぽっかり空いた穴から急に現れたみたいで不気味だった。指先には小さな紙が挟まっていたが、わたしはそれを受け取らず、紙に書かれている名前に目を走らせるとすぐに布団の上に戻った。
「……帰ってもらって」
なんでこのタイミングなのだろうか。最悪な気分がさらに最悪になった。
「せっかく、会いに来てくれたけん。少しの時間の間だけでも、会わんか?」
「会いたくない」
「やけども、3番の親父さんやろが。娘が会わんなんて言ったら親父さん、悲しむぞ?」
……何も知らないくせに勝手なことを。膝を抱いている腕に爪が食い込んだ。
「そんなこと、わたしに関係ない」
「親に向かって関係ないとか言ったらいけん。3番の親父さんだけん」
そんなことを言われても会いたくないものは会いたくない。何も言わずに黙っていると、ドアの鍵を開ける音がした。
「ちょっと、なにしてんの」
「出ろ。親父さんに会いたくないなら、面会して今後会いにくるなと直接言え。そうすれば、2度と会いに来んけん」
海老原さんはドアを開けた状態のままで立っている。それでもわたしが動かないのを見ると堅い声で言った。
「3番。刑務官に反抗的な態度をとるのなら懲罰対象として報告し、懲罰審議を行う」
横暴だ。そもそも面会を拒否する権利がわたしにはあるはずだ。懲罰なんて、海老原さんがそんなことをするはずはないと知っていたけれど、愚図っても仕方がないと思ったわたしは廊下に出た。
「じゃあ、いくぞ」
わたしは黙って海老原さんの後をついていった。廊下を抜けて階段を下りる。雨音以外は何も聞こえない静かな拘置所に2人の足音だけが響いた。今日は工事もしていない。天気が悪いせいもあって、拘置所内はかなり薄暗かった。
今日は昨日に比べて少し寒さが緩んだ気がした。雨が降っているとなると、雪だるまも溶けてしまったのだろうか。宮田くんが雪だるまをちゃんと完成させてくれたかどうかはわからないけれど。
昨日はあんなに楽しかったのに、まるで遠い昔の出来事のように今ではどうでもよくなっていた。
1階まで下りると、独居房以外で唯一、事務所の明かりだけがドア窓のブラインドから漏れていた。そこを右に曲がった先に面会室はある。面会室は五部屋あって、通されたのは一番奥の部屋だった。
ドアの小窓から中を確認した海老原さんが「入れ」と言ってドアを開けた。わたしはうつむいてなるべく前を見ないようにしていたけど、アクリル板の向こうに人が座っているのがわかった。そして、パイプ椅子を引きずる音と、わずかに服の擦れる音が聞こえると、海老原さんは「どうも」と恭しい声で応えた。
海老原さんに促されて、床を見つめたままパイプ椅子に座った。ちらりと横を見ると、海老原さんはノートを開いてボールペンを握ったまま動きを止めている。寒いのか、ボールペンを握っている手が小刻みに震えていた。
「初華」
その声を聞いた瞬間に、わたしはさらにうつむいた。まるで悪いことをしたのがバレて今から叱られるのを怯えている子供のようだった。
「すまなかったな。すぐに会いに来ることが出来なくて。その、父さんも母さんも色々忙しくてな。本当は、華永(はなえ)のやつも連れてきたかったんだが……」
今、目の前に座っているのが阿久津孝彦。わたしの父親だ。忙しいと言ったが、それは仕事のせいではなく、わたしのせいだということはわかっていた。毎週決まった日に休みがある父と違って、母は本当に仕事で忙しいのだろうけど。
「いいよ。別に。本当はお母さんに会いに行くなって止められてたんでしょ?」
目線だけを上げて父をみた。裁判から1週間しか経っていないのに、父の顔はさらにやつれたようだった。それに墨を塗ったように目の下が黒かった。白髪も増えたような気がする。父はバツが悪そうな顔をすると目を泳がせた。
「華永は、まあ、な。仕事のこともあるんだろうけど」
母は小さいがアパレル会社の社長だ。レディースファッション専門の。その社長の娘が前代未聞の殺人事件を起こしたとなると、社内でも問題になってさぞかし大変なことだろう。ただでさえ、人様に迷惑を掛けることを嫌う母だ。娘が人を殺したともなると、縁切りを言い渡されても不思議じゃない。自業自得。死んで償えとも思っているかもしれない。というか、既に裁判の前日に「死ね」と言われていたのを思い出した。
「それより、どうだ。ここではうまくやってるのか」
娘に会いに来てはみたものの、一体どんな話をすれば良いのかわからないという風に躊躇いがちに訊いてきた。
うまくもなにも、わたしは罪を犯して拘置所(ここ)に閉じ込められている。それだけだ。わたしが何も言わずにうつむいて爪を毟っていると、今一番聞きたくない言葉が耳に飛び込んできた。
「父さんの顔、見てくれないんだな。あの日の事、まだ許してくれないのか」
一瞬で頭に血が昇るのがわかった。
許してくれないのか?
許す?
どの口が言うのか。
そんなことを口にする時点で反省していないと言っているようなものでは ないのか。
――気持ち悪い。
忘れたいのに。
思い出したくないのに。
父の言葉で昔の厭な記憶が蘇った。
それは茹だるような暑さが連日続いたある夏の日の出来事だった。
わたしはクラブ活動を終え、家路についていた。夕方になっても気温が下がらず、道路の脇に設置されている電子掲示板は38度を示していた。
わたしのすぐ横を泥で汚れたトラックが猛スピードで走り抜けて、砂埃と熱風を巻き上げた。熱風がわたしの横っ面に当たって、黄色い帽子が飛ばされそうになった。タイヤで弾き飛ばされた小石混じりの砂埃が、素足に当たってちくちくした。暑さがより一層増した気がした。
クマゼミがけたたましく鳴き盛り、顔を照りつける西日は、焼き鏝を押し付けられているかのように熱かった。汗で滲む目をアスファルトの先に向けると、ゆらゆらと揺れる逃げ水が、走り去るトラックを水面のように反射させていた。
クラブ活動でへとへとになったわたしは、足をふらつかせながらやっとの思いで家に到着した。玄関の扉を開けると、外と変わらないくらい淀んだ熱気に顔が歪んだ。
いつもならちゃんと揃えておく靴を脱ぎ捨て、一目散にリビングへと駆け込んだ。背負っているリュックサックをフローリングに投げ捨てると、ストラップの留め金が床に当たって「キン」と硬い音がした。それには構わずエアコンのスイッチをONにする。
フローリングが傷ついて、あとで怒られるかも知れないと思ったけど、冷たい風が前髪を揺らした瞬間にそんなことはどうでもよくなっていた。
ソファーに座ってエアコンの風に当たっていると、筋肉が全部溶けてなくなってしまったかのように、わたしの全身は完全に緩み切っていた。連日の激しいレッスンで疲労が溜まっていたこともあって、すぐにうとうとしてくる。
汗で汚れた体のまま、ソファーで横になるとお母さんに怒られるけど、この何とも抗い難いふわふわとした眠気には逆らえず、ゆったりと体をソファーに預けて瞼を閉じた。
わたしは夢を見ていた。何かに追われているのか、それとも何かに追い縋ろうとしているのか、とにかく急いで前に走らなければいけないともがいていた。しかし、必死に足を前に伸ばそうとしても、重い枷を足にはめられているかのように腿が上がらず、一向に前へと進めなかった。
急がなければ、早くしなければと必死にもがいて焦る気持ちとは裏腹に、足はどんどん重くなっていく。足だけではなく、上下に振る腕も重くなって、体の動きすべてがスローモーションになっていった。その時、重くなって動かなくなった足を何かがゆっくりと這いあがってくる不気味な感触があった。そのおぞましい感触に短い悲鳴を上げ、体が激しく戦慄いた。
それは蟲だった。真っ黒な体から五本の脚が生えている蟲。姿がぼやけてはっきりと捉えられず、何の蟲なのかもよくわからない。それがわたしの様子を窺うようにゆっくりと5本の脚を動かして這いあがってくる。くるぶし、ふくらはぎ、そして膝。そこで蟲はぴたっと脚の動きを止めた。わたしを見つめている。
その蟲には目がなかったが、何故かわたしの顔を見つめているのがわかった。その蟲を刺激しないようにわたしはゆっくりと息を吸い込み、そして止めた。
これ以上、あがってこないで。どこかへ行って。わたしは心の中で必死にそう願った。身体は金縛りになってしまったかのようにぴくりとも動かない。そのせいで蟲から目を逸らすことができない。しかし逸らしてはいけない。逸らしたが最後、一気に駆け上ってきて喉に噛みついてくるかも知れないと恐怖で震えていた。
お願いだからあっちへ行って――。
願いが通じたのか、蟲が体をわずかに捻らせたように見えた。
よかった。どこかへ行ってくれるみたいだ。ほっとして目を伏せた瞬間に、獲物に食らいつこうとするように凄まじい勢いで蟲が這いあがってきた。わたしは恐ろしさのあまり金切り声を上げた。
そして目が覚めた。実際に悲鳴を上げたのかどうかはわからなかった。ソファーからがばりと起き上がったわたしは、赤い西日が差す大きな窓を見つめていた。どのくらい眠っていたのだろうか。夢の中で叫び声をあげた口は、大きく開かれていた。目線を下げると光が直接目に飛び込んできて、眩しさに一瞬視覚を奪われた。そして、はっとしたように辺りを見回した。
さっきの蟲は? どこへ行った?
夢だから実際に蟲なんていないのだけど、確かめずにはいられなかった。それに夢ならばなぜ、今も足に「何か」が触れている感触がするのだろうか。わたしはさっと視線を足に向けた。それは太腿で動きをぴたりと止めていた。
「蟲」ではなく、それは大きな「手」だった。5本の脚と思っていたのは脚ではなく指だった。そして、わたしの視線が夢の中の「蟲」のように恐る恐るゆっくりと手を、腕を、肩を、順番に登っていく。そして顔で止まった。
――黒かった。
西日で赤々と照らされた手とは対照的に、光に照らされていない顔や体は陰となって黒く覆われていた。起きたばかりで頭がぼやけているのと、得体の知れない大きな「影」に恐怖ですくんでいるわたしを見て、「黒い顔」が嘲笑混じりの息を吐いた。すると甘ったるい匂いがわたしの鼻をついた。
あとでわかったのだけれど、それは「アルコール」の匂いだった。唯一「目」だけは、何故かはっきりと見えた。瞼の隙間、あるかないかわからないくらい、細い糸のような隙間から覗いた「暗い目」がニタニタと笑いながら、わたしをじっと見下ろしていた。
「蟲」の正体は父の手だった。父がわたしの太腿に手を置き、甘い息を吐き出しながら暗く濁った目でわたしを見つめていた。そしてわたしに何かを囁いた。
そのあとのことは頭に霧がかかってしまったかのように何も思い出せない。しかし、わたしの幼い心にはしっかりと刻まれた。父に対する嫌悪と恐怖が。
父親が娘に触れる。それ自体におかしなことはなにもない。はぐれないように、勝手にどこかへ行ってしまわないように娘と手を繋ぐこともあるだろうし、良い行いをした娘を褒めて頭を撫でることもあるだろう。しかし、あの時の父がわたしに触れた目的は、そのようなものとは断じて違うと幼いながらにわかった。「普通」ではない「おかしなこと」なのだと。それ以来、父を避けるようになった。必要最低限の日常会話すらしなくなった。父も娘にしたことに対して罪悪感を抱いているのか、わたしから距離を置くようになった。
その父が、アクリル板の向こうでわたしを見つめている。
思い返してみると、父とこうやって真正面から向き合って話をしたことは一度もなかった。わたしが下を向いているあいだ、父は真っ直ぐにわたしを見て言葉を待っているようだった。
「……それで? 何なの? わたしに説教したくてここに来たの?」
沈黙に耐え切れなくなったわたしは、顔を上げて父を睨んだ。
「説教……そうだな。説教なのかもしれないし、そうじゃないかもしれないが、何と言ったらいいのか……。その、お前はこれからどうするつもりなんだ?」
どうするつもり?
どうするもこうするも、死刑になるのか、そうならないのかを待っているだけだ。今がどういう状況なのかわかっているのだろうか。くだらない。
「どうして欲しい? わたしに『悪うございました。反省してます』って泣きながら謝って欲しい? それとも『わたし、死刑になりたくない! お願い! 助けてお父さん!』って土下座でもして命乞いをして欲しい? ねえ、お父さん。どうして欲しいの?」
オーバーリアクションで「かわいそうな娘」を演じるわたしに父は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。そして、アクリル板につきそうなくらい顔を近づけたわたしは小さな声でぼそりと言った。
「心配しなくても大丈夫だよ。どうあがいたって、わたしは死刑だから」
わたしの言葉に驚愕した父が何か言おうとしたが、口を開くことはなかった。
両手を膝に置いて申し訳なさそうな顔をしている父の姿とわたしを見比べたら、どっちが拘留されている人間なのかわからなくなる。
「この間の裁判はどうしてお父さんしか来なかったの?」
苦虫をかみ潰したような表情で俯いた父は「それは……」とだけつぶやいた。
「帰って」
「初華……!」
「帰って。二度と来ないで。お母さんだったらそうするでしょ?」
逡巡した父は言葉を紡ごうとしたけれど、それが口から出ることはなく、項垂れて立ち上がると海老原さんに会釈した。そして、わたしを一瞥することなく、肩を落として面会室を出ていった。わたしは、父の背中を冷たい目で見つめていた。
~第二章~ (6)の登場人物
阿久津初華(あくついちか)
5人を殺害し、死刑を求刑された少女。
阿久津孝彦(あくつたかひこ)
初華の義理の父親。
海老原(えびはら)
Y拘置所の刑務官。最年長。
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