【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第六章~ (4)
(4)
初華は立ち上がると読み終えた「あしながおしさん」を私物棚に戻した。所々擦れたり破れたりしていて、かなりの回数を読み返していたことがわかる。
「本当に、何回読んだかわからないな」
独り言ちて薄い笑みをこぼすと、背後から声をかけられた。
「初華ちゃん、面会だよ」
視察窓から顔を覗かせたのは宮田だった。
宮田の顔が強張っているのが初華は気になった。それにしてもこんな時間に面会?
一般の面会は午後5時までなので、この時間での面会は弁護人しかいないことを初華は知っていた。
「道重先生?」と初華が尋ねると、宮田はうなずいた。そう言えば、判決日の前日に面会にくると以前に話していた。それにしても、なぜこんな遅い時間なのだろうか。
独居房を出た初華は、宮田を先頭に灯りの点いた廊下を歩く。相も変わらずY拘置所の夜の冷え込みは厳しく、2月ともなるとより一層寒さが厳しくなるであろうことは予想に難くなかった。ここに居られるのも、明日の朝までかもしれない。そう思った初華は、寂しげな表情を浮かべながら宮田の背中を見つめていた。
いつも友達のように接してくれて、イケメンで、少し自覚が足りない刑務官。そんな彼に落雷のような叱咤を受けたときは心底堪えた。しかし、それがきっかけで「自分を見つめなおす」ことが出来たのも確かだった。彼の見た目や言動だけで判断して、「馬鹿なのだろうか」と心の中で蔑んだことを恥じた。彼に比べたら、自分の方がはるかに愚かで馬鹿だった。
そして、赤津猪鹿蔵のおかげで「偽りの自分」の奥深くに閉じ込めていた「本当の自分」を呼び覚ますことができた。しかし、それは初華にとってつらいものでしかなかった。
すべては身勝手な自分がしたことの結果なのだから誰のせいでもない。後悔も、反省も、謝罪すらも許されない。現実を受け入れ、与えられる「死」を受け入れるだけだった。
ただ、それでも死ぬ前に世話になった人たちにきちんと謝罪と礼を伝えたかった。
「宮田くん」
声を掛けられた宮田は足を止めて振り返った。
「ん? どうしたの? 体調でも悪い?」
初華はゆるゆると首を横に振った。
「ありがとうね。今まで面倒見てくれて。それと、ごめんね。わたしより全然年上なのに馬鹿にしたりして」
初華の言葉に宮田は静かに微笑んだ。いつものような「はにかみ」ではなく、哀しみを湛えた笑顔だった。
「……いいんだよ」
それだけを告げると「行こうか」と言って初華に背中を向けた。目深に被った制帽のつばが影になって宮田の目元は見えなかった。
通された面会室はいちばん奥の部屋で、入室と同時に弁護士の道重大輔が顔を上げた。
「ちょっと待ってね」
そう言って宮田はハロゲンヒーターをセッティングすると、面会室の扉を閉めた。暖かい光に照らされた初華は、ほっと息をついた。
「こんばんは。道重先生」
初華の顔をみた大輔は驚いた。いつも張りつめていた様子の彼女と明らかに違って見えたからだ。憑き物が落ちたというか、なにか心の変化があったのだろうかと思った。もしや、夫人の手紙が――。
そう思った瞬間に肺の空気が薄くなって呼吸が浅くなった。目頭が燃えるように熱くなったが、何とか堪えて口を開いた。声が震えていないことを願いながら。
「やあ、阿久津さん。変わりはないかな?」
大輔が尋ねると彼女はわずかに目を伏せたが、すぐに顔を上げて明るい声を出した。
「変わりましたよ! いろいろと。大人の階段を一段上がった感じ? いやぁ、今まで本当に子供だったなあって。自分でも呆れちゃうっていうか、救いがたいですよね。でも、今はすっかりこの通り!」
明らかに空元気であることはわかっていた。だが、それでも良いと大輔は思っていた。以前とは違って、今の彼女からは鬱屈さが感じられなかった。だが、それゆえにこの先彼女を待ち受けている現実を考えると、胸が焼かれるような思いだった。
「……お母さん、結局今日も面会に来てくれませんでした」
初華の言葉に大輔は目を見開いて視線を落とした。全身から滝のような汗が湧き出るような感覚に囚われながら逡巡した。今言うべきか。そして後悔もしていた。夫人ともっと会って話をするべきだった。そうすればもっと早く彼女に母親の気持ちを伝えてやることができたのに。
手紙……そうだ、夫人が差し出した手紙があるじゃないか。しかし、「赤津猪鹿蔵から手紙が届いたか」と直接訊くのをためらった大輔は、悟られないように遠回しに初華に尋ねた。
「そういえば、もう長い期間拘留生活をしているけれど、阿久津さんに差し入れはなかったのかい?」
大輔の言葉に「実は」といって初華は続けた。内容は、夫人が話していたとおりだった。赤津猪鹿蔵という謎の人物から、毎月現金と文庫本の差し入れがあったこと。「そして」と初華は続けた。
「先日、その赤津猪鹿蔵さんから手紙が届いたんです」
それだと思った大輔は身を乗り出した。
「それで? その手紙にはなんて書いてあったんだい?」
初華は小さくはにかむと手紙について話した。初華の拘留生活を心配した赤津猪鹿蔵という人物が毎月現金を差し入れてくれたこと、殺人を犯した初華を責める一方で、犯した罪について深く反省し、社会の復帰を願っているということ。そして、殺してしまった人たちに「投かん」しない手紙を書くこと。彼女が話したのはそこまでだった。
大輔は心の中で首を傾げた。
何かおかしい。確か夫人は娘に謝罪と今の自分の気持ちをしたためた内容の手紙を出したと言っていたはずだ。ということは、赤津猪鹿蔵の正体が華永夫人であることも当然書かれているはずだ。大輔は怪訝な表情で初華に尋ねた。
「手紙に書かれていた内容はそれだけ、なのか?」
「はい、そうですけど……」
この時、初華は赤津猪鹿蔵に手紙を出したことを大輔に話さなかった。出した手紙の内容を訊かれると思ったからだ。それに杉浦から絶対に誰にも話すなと言われていた。それも当然なことだった。手紙に書かれていることは事件の「真相」にかかわる内容なのだから、いまさらすべてを話したところで、かえって混乱を招くだけだと思った。それに、死刑になることに何も変わりはないのだから。
思案顔で腕を組む大輔に初華は縋るような顔で尋ねてきた。
「道重先生、お母さんとお父さんは、明日わたしの裁判に来てくれますか? 先生なら知っていますよね? お父さんは、来てくれると思うんだけど……」
大輔は言葉に詰まった。彼女の両親が火事で亡くなったことをどう伝えれば深く傷つかずに済むだろうかと思考を巡らせたが、何ひとつ言葉が思い浮かばなかった。
「……ご両親はお忙しいみたいでなかなか会えなかったから話は訊けなかったけれど、明日はふたりとも来てくれると思うよ」
完全に口の中が乾いていた。「嘘」の言葉に安堵した彼女の様子を見て、大輔は自分が酷く醜い悪魔になったような気がした。
「それじゃ、明日また法廷で」
そう言って席を立った大輔を初華が呼び止めた。
「先生、あの……」
呼び止めた彼女は目を泳がせていたが、はっきりとした口調で大輔に言った。
「もしかして、先生が赤津猪鹿蔵さんですか?」
大輔は拘置所を後にした。時計を見ると午後9時を回るところだった。この時間に面会に訪れたのはやはり迷惑だっただろうか。だが、正直なところ、面会に行くかどうかも悩んでいた。まさか彼女の両親が火事で亡くなるとは思っていなかったからだ。
『先生が赤津猪鹿蔵さんですか?』
彼女の問いかけに大輔は首を横に振った。
しかし、赤津猪鹿蔵の正体が華永夫人であると彼女に伝えることはできなかった。彼女が話していた手紙の内容が、夫人から聞いていたものと異なっているのがどうにも気になって仕方がなかった。
果たして、彼女が受け取った手紙は本当に夫人が書いたものなのだろうか。胸にしこりとなって残った疑問は、やがて胸騒ぎになった。
~第六章~ (5)の登場人物
阿久津初華(あくついちか)
聖フィリア女学院の女生徒と家族を殺害し、死刑を求刑された少女。
少年犯罪で、未成年の少女に死刑が求刑されたのは戦後初。
宮田宗一郎(みやたそういちろう)
Y拘置所の新人刑務官。父親を自殺で亡くし、母親は失踪して家族は離散。少年鑑別所の職員との出会いによって刑務官の道を志す。
道重大輔(みちしげだいすけ)
初華の国選弁護人。妻と娘がいたが、3年前に交通事故で亡くしている。
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