【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第二章~ (5)
(5)
2026年 1月23日
判決日まであと11日
「こんにちは、阿久津さん。すみませんね、時間が空いてしまって。本当に申し訳ないです」
留置場から出てきた彼女の顔色は良く、体調も悪くなさそうだった。あれから3日ほど空いてしまったが、この日はようやく取り調べの続きを行うことが出来た。看守から彼女を預かり、取り調べ室に連れて行く。彼女を座らせ、パソコンの準備をしている間に少し雑談をした。
「どうですか。ここでの生活には、もう慣れましたか?」
彼女は空中に視線を彷徨わせながら「そうですね。まあ、慣れたかな。就寝時間が早すぎてなかなか寝付けれないのが問題ですけど」と言った。
「あー、確か21時に就寝ですもんね」
「それで、起床は6時なんですよ? いくら子供でも、9時間も寝ていられませんよ。それに5時ごろから看守さんが慌ただしく動き始めるから、その音で目が覚めちゃう」
「そうなんですね。僕も看守さんに話を訊いたことがあるんですが、わざと睡眠時間は長めに取っているみたいですよ? 容疑者といっても大切な身柄ですから、体調管理には気を付けているみたいです。」
へーそうなんだと言って彼女は頷いた。そう言えば、いびきがうるさかったおばさんがいなくなったから寝るときは少しマシになったんですよと彼女は笑った。
「いなくなったおばさんって、どこへ行ったんですか?」
彼女の問いかけに今度は僕が視線を泳がせることになった。
「そうですね、その人は釈放されたか、もしくは移送されたか。ですね」
「移送? 移送って、どこに移送されたんですか?」
「拘置所ですね」
「それじゃ、釈放されたって言うのは?」
「不起訴で釈放されたか、もしくはお金を払って保釈されたかのどちらかですね」
そうなんですかと言って、彼女は椅子の背もたれに体を預け、僅かに視線を落とした。
「阿久津さんも、釈放されたいですか?」
会話の流れで思わず口に出してしまったが、すぐに後悔した。愚問だ。誰でも釈放されたいに決まっている。彼女は顔を伏せたまま、瞳だけをこちらに向けて呟くように言った。
「わたしを釈放、してくれるんですか?」
「阿久津さんが取り調べに協力していただけるなら……あるいは」
嘘だった。正直にすべてを話せば赦されて釈放されるなどあり得ない。彼女もそれがわかっているのか、俯いたまま何も言わなかった。僕は、嘘をついた自分に心の中でため息をついた。
(こうやって、人は小さな罪を重ねていくんだな……)
ようやくハードディスクの読み込みが終わると、デスクトップ画面が表示された。マウスをクリックして供述書の書式を開く。
「それでは、取り調べを始めますね」
いつものように黙秘権についての説明をしてから取り調べを開始した。今日は彼女の家族のことや、家庭環境について話を訊くことにした。
「えっと、今日は阿久津さんのご家族について、もう少し詳しくお話を訊かせてもらいたいのですが、よろしいですか?」
彼女の眉間が微かに皺を作った。以前から彼女は家族のことを話したがらなかったが、それでも調べを進めなければならない。少しの間をおいて「わかりました」と彼女が呟いたのを確認してからキーボードに手を置いた。
「ご家族は阿久津さんも含めて3人ということですので、えっと。それでは、まずはお父さんから」
お父さんという言葉に彼女の肩がぴくりと反応したのがわかった。
「阿久津さんの現在のお父さんは、実のお父さんではないということですが、それは本当ですか?」
「本当です。嘘をついて何になるんですか」
「それもそうですね、失礼しました」
なかなか手厳しい返しだ。まずは実父について尋ねることにした。
「ということは、阿久津さんのお母さんは再婚されたということですね。阿久津さんの本当のお父さんは、今はどちらにいらっしゃるのでしょうか」
「わかりません。母も、知らないようですし。それに、実の父のことはわたしもあまりよく憶えていません」
「なるほど。差し支えなければ、なぜ離婚なさったのかお聞かせ願いたいのですが。どうでしょうか」
「母は父に他に好きな人が出来て、それが原因で離婚したと話していました」
「お父さんは、阿久津さんにそのことを話しましたか?」
「聞いた覚えはありません。でも言わないでしょう? 普通。実の娘に他に好きな人ができたからお母さんとは離婚するだなんて」
顔を上げた彼女は冷ややかな目で見つめ返してきた。
「確かに、阿久津さんの言う通りですね」
こほんと咳払いをして続けた。
「最後にお父さんと何を話したか、憶えていませんか?」
「お父さんと最後に話したこと……?」
そうつぶやいた彼女は、天井を見上げて記憶の糸を手繰っていた。
「……憶えていません。8年も前のことなので」
「そうですか。わかりました。ありがとうございます」
とりあえず、実父について話を訊くのはここまでにしておいた。
「それでは、えっと。現在のお父さんについて教えていただきたいのですが」
「教えて、というのは?」
「今、お父さんがされているお仕事とか、どんな性格なのか、とかですね」
「仕事、ですか。サラリーマンですよ。工場の。お昼と夜、働いています。交代勤務って言っていました」
「なるほど、工場で2交代のお仕事をされているんですね。お父さんは、ずっと工場のお仕事をされているんですか?」
「それは昔からってことですか? 以前は自分で仕事をやっていたみたいですけど、辞めてからは工場で働き始めたみたいです」
「自分で仕事っていうのは、何か事業をされていたということですか?」
「事業? ええ。そうみたいです」
「お父さんとよく話はされたりするんですか?」
「しません」と語気を強めて彼女は答えた。これまでの質問の中で一番返答が早かった。
「木島さん、父の話と事件に一体なんの関係があるんですか。この質問に一体なんの意味があるんですか」
苛々した様子で彼女が声を荒げて身を乗り出すと、手錠で繋がれたパイプ椅子が床を擦った。
「すみません、これも取り調べで大事なことなので。もちろん、言いたくないことは言わなくても大丈夫ですのでもう少しだけ、お父さんのことについてお話を訊かせてもらえませんか?」
彼女は舌打ちを我慢するかのような顔で椅子に腰を下ろした。
「阿久津さんはお父さんと何かトラブルでもあったのですか? 差し支えなければ、教えていただきたいのですが」
彼女はそっぽを向いて口を真一文字に噤むと膝を揺すっていた。このままでは取り調べが進まない。質問の仕方を変えてみることにした。
「阿久津さん。今から質問することに無理をして話をしなくても大丈夫です。『はい』か『いいえ』でいいので答えてもらえますか? それも口で言う必要はありません。『はい』なら頷く。『いいえ』なら首を横に振ってください。それで、お願いできますか?」
彼女は一瞬、僕を見てからまた目を逸らすとこくんと頷いた。
「ありがとうございます。それではお訊きしますね。現在のお父さんとは仲がいいですか?」
彼女は首を横に振った。目線は逸らしたままだ。
「昔から仲が悪かった?」
少し間をおいて首を横に振った。
「お父さんのことが嫌いですか?」
頷いた。
「それは一緒に生活し始めた頃からずっと?」
目を左右に泳がせてから首を横に振った。
「何か嫌なことがあってお父さんのことが嫌いになった?」
頷いた。
「お父さんは、阿久津さんのことをひどく怒ったり、暴力を振るったりしたことがありましたか?」
すぐに首を横に振った。
「嫌なことがある前までは、お父さんと仲が良かった?」
やや間をおいて、躊躇いがちに頷いた。
「嫌いになった理由は話したくない?」
一瞬、僅かに目線を上げてから強く頷いた。なるほど。なんとなくだが、察しは付いた。デリケートな話なので、今回はここで終わることにした。
「わかりました。お父さんのお話はここまでにします。ありがとうございました。もし、お父さんのことについて話したいことがあったら、また教えてくださいね」
彼女は顔を上げてほっとしたような顔をした。
「今日はもう終わりですか?」
「ごめんなさい、もう少しいいですか? お母さんのお話もお伺いしたいので」
彼女は口を尖らせ「えー?」という不満顔で椅子にもたれた。
「すみません、ちょっと待ってくださいね」
ノートパソコンに目を戻して、今訊いた供述内容を素早く打ち込んでいく。取調室にキーボードのガチャガチャというせわしない音だけが響いた。
「すごい。なんでそんなに早く打てるんですか?」
彼女は僕の手元をじっと僕を見ていた。
「え? ああ。これですか。練習すれば誰でもできるようになりますよ。それにこういう仕事ですからね。時間が限られているから嫌でもはやく出来るようになるんです」
喋りながらもキーを打ち込んで供述書を作成していく。
「なんだか、カッコいいですね。仕事ができる人みたいで」
そう言われると悪い気はしない。思わず背筋が伸びてキーを叩くスピードが速くなる。
「よしっと。それでは、次はお母さんのことについてお訊かせ願いますか?」
タンッと、エンターキーを叩いて彼女に視線を向ける。彼女の表情は硬かった。
「お母さんは……厳しい人です」
ぽつり、ぽつりと彼女は母親について話しはじめた。
母親も彼女と同様に才色兼備のようで自分に厳しく、他人に迷惑を掛けることを最も嫌う人だと彼女は言った。その厳しさは家族にも向けられたとも。
事業に失敗し、しがない工場労働者になってしまった夫。幼いころから手塩にかけて育てた娘は、今では5人を殺害した凶悪犯罪者。罪を犯した娘に母親は激しい怒りをぶつけ、寄り添うことはしなかった。
接見禁止が解除されて数日が経ったが、弁護士以外で彼女の接見に訪れた者は両親どころか、誰もいない。差し入れさえもなかった。怒りは至極もっともなのだが、親としてそれも如何なものだろうかと首を傾げた。彼女だけではなく、やはり家庭環境にも問題があるのではないだろうか。
「困っている人がいたら、必ず助けてあげなさいというのがお母さんの口癖でした」
「それは素晴らしいお考えですね」
彼女にとっての〝困っている人〟というのが櫻木一桜だったのだろうか。ふと、そんな考えが頭をよぎった。しかし、以前の取り調べで櫻木一桜について話を聞いた限りではそういう風には感じられなかった。さりげなく彼女に話を振ってみた。
「櫻木さんも学校生活で困っていたのでしょうか」
「一桜は――」と言って、彼女はいったん言葉を切った。
「……一桜は、わかりません。でもきっと、あのままだと今後の学校生活で困ったことになるのはわかっていました」
わからないのにわかっていた? なにかへんだ。
「なぜ、櫻木さんが学校生活で困ることになると阿久津さんはわかったのですか?」
彼女は、「え」ともらすと、心外なことを言われたような顔をしてうつむいた。
「それは、だってわたしは、一桜の親友だから」
そう言った彼女の頬がすこし、赤くなっていたのが気になった。
「刑事さん!」
そう言って彼女が伏せていた顔をがばっと上げると、その顔はしわくちゃになって醜く歪んでしまっていた。
……しわくちゃに?
「どうしたい、刑事さん。取り調べやらんのけ?」
顔中が皺と染みだらけのおじいさんが僕の目の前で掌をひらひらと振っていた。
はっと顔を上げて辺りをぐるっと見回した。ここは取調室だ。そして今から鴨原さんの取り調べを始めるところだったのを思い出した。
「腕組んでずーっと目、瞑ってるから寝ちまったのかと思ったぜ」
パソコンが立ち上がるのを待っているわずかなあいだに、本当に眠ってしまったようだ。最近は忙しくて睡眠時間を十分に摂ることができない日々が続いていた。
「なんだい、お疲れのようですなぁ。刑事さん」
……疲れているのはあんたのせいでもあるんだが。この人もなかなか取り調べが進まなかった。
「大丈夫ですよ、鴨原さん。お気遣いありがとうございます。それでは取り調べを始めますね」
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