【小説】初華 死刑を求刑された少女 ~第六章~ (7)
(7)
路肩に停車しているSUVの車内は重い沈黙に包まれていた。
運転席に座る寺塚は、腕時計を見ては指でハンドルを叩いていた。助手席に望月が、そして後部座席には世吾が険しい表情で俯いていた。
そして、車内に充満する微かに鼻を衝く匂い。ラゲッジルームに赤いポリタンクが一つ置かれているが、中身はおそらくガソリンだろう。一体、何に使用するつもりなのか。
『連判状?』
早朝に寺塚のアパートに集合すると、どこからともなく寺塚が半紙を取り出した。これを書くことの意味が世吾には理解できなかった。
『そう、連判状だ。おれたちは今から一蓮托生だ。誰一人抜けることは許さねえ。そのための証よ』
『まったく、寺塚さんは好きですね。時代劇の見過ぎなんじゃないですか。しかも三人だけの傘連判状ってどうなんです?』
望月は肩をすくめた。
『いいじゃねぇか。カグラさんから時代小説を借りたんだが、結構面白かったぞ? それにこれから娘の仇討ちに行くんだ。最後くらい、カッコつけさせろよ』
ふたりは既に名前を書き終えていたようで、残すは世吾のみだった。筆ペンで署名し、血判を押すというこだわり様だった。血判を押し終わると望月からティッシュを渡されて血を拭った。
そして、小さな白い盃が三つ畳に置かれた。
『そういえば、カグラさんはどちらに?』
『カグラさんは仕事中でしてね。ですが、私たちで必ずやり遂げるとお約束しました』
『ああ。カグラさんにあの女が死ぬ瞬間を見せてやれないのは残念だけどな。そのかわり、あの女が死んだ写真を撮って送ってやるのもいいかもな』
冷徹な笑みを浮かべる寺塚に世吾は背筋が震えた。
カップ酒を注ぎ終わった望月は世吾のとなりに腰をおろした。
『それじゃ、いいかい? ご両人』
寺塚に促された望月は盃を掲げた。遅れて世吾はそれに倣った。
『我ら赤津猪鹿蔵、悪童阿久津初華を討ち滅ぼし、奴と同じ外道に堕ちる』
寺塚の口上に望月は深くうなずいた。
『今生の別れである』
ハンドルに両肘を乗せた寺塚は道路を凝視していた。
阿久津初華を乗せた護送車を襲うというのが今回の作戦だった。てっきり拘置所から出てきた瞬間を襲うものと思っていたが、今SUVがいる場所は拘置所から少し離れた広い道路だった。
殺された娘の仇を討とうとしている寺塚と望月を目の前にして、世吾は迷っていた。
怨みの感情に任せて人を殺すなど、果たして意味はあるのだろうか。いや、それで満足するならば本人にとって意味があることなのかもしれない。
俺はどうしたいんだ?
一時の怒りの感情に任せて彼らの仲間に加わったが、それが果たして本当に正しい選択なのだろうか。俺は初華ちゃんを本当に殺したいと思っているのか?
「あんた、迷ってるいるのなら、いますぐ降りてもいいんだぜ?」
世吾が顔を上げると、ルームミラーの中の寺塚が睨んでいた。
望月は驚いたような表情を浮かべて寺塚を見ていた。
「しかし、連判状が……」
「連判状? 言ったろ? あれはただ単にカッコつけたかっただけだよ」
口をあけて笑った寺塚だったが、すぐに無表情になった。
「ここでいまあんたが警察に通報しようが、なにをしようが、おれたちは必ずやり遂げる。たとえあんたを殺してでもな。あんたがあの女を殺せないというなら別にそれでも構わん。構わんが、おれたちの邪魔はするな。もし、一緒に来るのならな」
寺塚の言葉に世吾が逡巡していると望月の携帯が鳴った。それと同時に寺塚は車のエンジンを始動させた。
「5分後にこの道路の前を通過するそうです」
望月の言葉に寺塚はうなずいた。
「櫻木さん、悪いな。もう後戻りはできねぇ」
* * *
裁判所に向かうミニバンの車内はロードノイズで満ちていた。
中村がハンドルを握り、助手席に宮田、そして後部座席に初華と海老原が座っていた。
車窓から見える外の景色は朝の慌ただしさにあふれていた。
行き交う車、バス亭に並ぶ人々、足早に歩くサラリーマン、そして、自転車のペダルを必死にこいで坂道を駆けあがる学生たち。スモークガラスの向こう側が、遠い世界の出来事のように初華は見つめていた。
もうあんな風に街の中を歩くこともできないと思うと、当たり前だった日常がいかに大切であったのかを嫌でも思い知らされた。本当ならわたしだってあの学生たちみたいに一桜といっしょに――。
初華は首を振った。この期に及んで自分の身を案じるなんて情けない。きっと死刑判決が下される。ただそれを受け入れるのみだった。
海老原は手錠に繋がれた初華の手首を見つめながら、苦悶の表情をうかべていた。
――可哀そうになぁ。だけど、やっちまったもんには責任を取らなきゃいけん。あの子は五人の命と人生を無理やり奪ったんだ。残された遺族に一生消えない哀しみと苦しみを背負わせちまったんだ。だから、遺族の怒りと憎しみはあの子が背負わなきゃならん。背負って、一人で冥土に行かなきゃならん。俺らは、あの子が冥土に旅立つのを怖がらないように、少しでも死への不安を取り除けるように、あの子の生活の面倒を見てやることしか出来んのよ。わかるか、宮田。
新人である宮田の手前、あんなことを言ってしまったが、今となってはひどく後悔していた。たとえどんなに罪を重ねようと、子供に死んでほしくないと思うのは親として当然のことだった。華永が死んでしまったいま、初華には俺しかいない。それなのになにもしてやれない自分の無力さに苛まれることしかできない。
せめて無期懲役でもいいから、初華が生きていてさえくれたら――。
裁判所へ向かう車は、緩やかなカーブを曲がりながら坂道を下るところだった。青く広がる海は、朝の光をキラキラと反射させていて、遠くには漁船も見える。坂を下った車は、小さな波止場に差し掛かるところだった。
「綺麗な海――」
初華の驚嘆した声に海老原が窓に視線を向けた瞬間だった。凄まじい爆音と衝撃が脳髄を揺さぶり、まるで倍速設定で撮影された太陽が昼と夜を交互に繰り返しているかのように目の前をぐるぐると回った。
回っていたのは太陽ではなくミニバンだった。
広いT字路から飛び出してきたSUV車が左側面に激しく衝突し、制御不能になったミニバンは、二回転してアスファルトに天井を滑らせながら、防波堤にぶつかって止まった。凄まじい衝突音にあたりは騒然となり、行き交う人々も驚いた様子で何事かと足を止めていた。
宮田と中村のうめき声に海老原は意識を朦朧とさせながら瞼を開けた。
エアバックがすべて飛び出していた。エアバックとシートベルトのおかげで命は無事のようだったが、助手席あたりに車が衝突したのか、ドアが変形していて、宮田の頭が血に染まっているのがわかった。
「初華、3番。大丈夫か」
海老原が初華の名を呼ぶと「うーん」とうめきながら彼女はうっすらと目を開けた。よかった。見た限り大きな怪我もなさそうだ。
「海老原さん、一体なにが起きたの……?」
「わからん。とにかく、車からでよう。ガソリンが漏れているかもしれん」
そう言って、ドアに手を伸ばそうとした海老原の袖を初華が引っ張った。
「海老原さん、誰かこっちにくるよ?」
「なに……」
逆さまになったドアガラスに目を向けると、こちらへ歩いてくる足が見えた。
衝突した車に乗っていた人間だろうか。それにしては様子がおかしい。事故を起こしておきながら悠然とした足取りでこっちに向かってくる。3人が近づいてくると、そのうちの1人はポリタンクを持っているのがわかった。
ポリタンクを手に鼻歌まじりでミニバンへ歩いていく寺塚を見て世吾は慄いた。
車内には阿久津初華のほかに刑務官がいるはずだ。まさか、ガソリンに火をつけて彼らもろとも彼女を殺す気なのか? もしかして、彼女の両親を火事で殺したのも、彼らなのでは――。
早鐘をつくように世吾の動悸が激しくなった。事故現場は多くの人々の注目を集めていた。そんな中で人を殺すなんて、やっぱり正気の沙汰じゃない。今すぐやめさせるべきか、どうするべきか、焦る気持ちを抱えたまま、世吾は寺塚の背中を震える目で見つめていた。
(まずい)
海老原の直感が危険を訴えていた。
とにかく、早く車の外にでなくては。しかし、初華のほうのドアはもともと開けられないつくりになっているために脱出は不可能だった。かといって反対側のドアを開けたとしても、車体と防波堤にはわずかな隙間しかなく、脱出するのは難しい。いや、身体が細い初華なら出られるかもしれない。そうこうしているうちに、3人の足が止まった。
ポリタンクが地面に置かれると、なにやらごそごそとやっていた。ジッポーライターの音がして、どうやら煙草に火をつけたようだった。
「いいか、今すぐそっちのドアを開けてそこからでろ」
「でも、すごく狭いよ。でられるかどうか」
「いいから、無理やりにでもでろ。このままだとたぶんまずいことになる」
「……なに? この水の音。それにこの臭い」
ガソリンの臭いだ。誰だか知らないが、ガソリンを撒いている。まさか、火をつけるつもりか。
「お~い、聞こえてるか? ていうか生きてるか? 阿久津初華ちゃんよ」
「誰? 誰なの?」
初華の返事に舌打ちをする音が聞こえた。
「んだよ。生きてんのか。まあ、いいや。俺はお前が殺した莉緒のパパだよ。あと日葵ちゃんのおやっさんもな。ああ、そうそう。あと一桜ちゃんのお父さんも一緒だぜ?」
初華の顔が一瞬で青くなった。まさか、殺された娘の復讐のためにこんな事故を起こして今から火をつけようというのか。
「おい、やめろ! こんなことして何になる! 関係のない人間だっているんだぞ!」
「知ったことかよ。そもそも全部その女のせいだろうが。お前らが死ぬのも全部その女のせいなんだよ。恨むならその女を恨みな」
煙草を咥えてくぐもる声に混じって、ガソリンがアスファルトをびちゃびちゃと叩く音が響いた。海老原は大声で叫びだしそうになった。殺すなら俺を殺せと。
「なにやってる! 早くでろ!」
初華の手錠を外してやりたかったがもう時間がなかった。初華はスライドドアの取っ手を掴んで引いたが事故の衝撃でフレームが歪んでしまったのか、建付けの悪い雨戸のようにびくともしなかった。海老原が初華を押しのけて、足で蹴っては引いてを繰り返してなんとか人ひとりが通れる隙間ができた。
「よし」
ポリタンクを投げ捨てた寺塚は口にくわえた煙草を指でつまんだ。まるで映画のワンシーンのように火をつけるつもりらしい。
「じゃあな。地獄で永遠に苦しめ」
キメゼリフを吐いて煙草を弾こうとした瞬間に両腕ががっちりと抑え込まれると、煙草はあらぬ方向へ飛んでいった。見下ろすと世吾の腕が絡まっていて、咄嗟の出来事に寺塚のうしろにいた望月はぎょっとした表情を浮かべているだけだった。
「てめぇ! 邪魔するなって言っただろうが!」
「やっぱりダメだ! 彼女を殺すのは、ダメですよ!」
初華の事は赦せないが、やはり殺すのはダメだ。それでは彼女と同じになってしまう。彼女は、司法の手によって裁かれるべきだ。
世吾は彼らのように「外道に堕ちる」ことはできなかった。きっと、一桜だってそれは望んでいないはずだ。
「くそ! おい! 早く火、つけろ!」
唾を飛ばしながら寺塚は望月に怒鳴った。慌てた様子でライターに手を伸ばした望月だったが、車を見て「あ!」と叫んだ。
身体を捩りながらなんとか車の外に這い出た初華だったが、鼻を衝くガソリンの臭いに顔を歪ませていると、憤怒している寺塚に睨まれてその場に立ちすくんだ。
「初華ちゃん、はやく逃げて!」
世吾の声にびくんと体を震わせたが、寺塚に「そこを動くんじゃねぇ!」と怒声を浴びせられると、逡巡した様子で初華はまごついた。
寺塚が「おい」と顎をしゃくると、初華を捕まえようと望月がにじり寄ってくる。
「初華! 逃げろ!」
海老原がそう叫んだ瞬間、彼女を捕まえようとした望月の腕を躱した初華は、一目散に走り出した。
「追えよ! 早く!」
舌打ちした寺塚に追い立てられるようにして、望月はわたわたと走り出した。
「くそがッ!」
身体を捩って強引に拘束を解くと、寺塚は世吾の眉間に肘を打ち込んだ。頭に強い衝撃を受けた世吾はそれでも手を離さなかったが、三度目を打ち付けられた瞬間にもんどりうって倒れこんだ。
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