「はたらくを自由に」をディスる【「消せ」と言われたら「消す」所存】

「働く」と「自由」。
矛盾している事象を、「キレイ事」や「お為ごかし」で隠蔽する手合いを私は軽蔑する。
「働く≠(「労苦」という意味を含む)労働」という、まやかしの言葉で他人を翻弄する人種だ。

私には、何だか漫画家の知り合いが多い。
彼(女)らは、概念的に憧れられる「自由業」では無いだろうか?
まあ。
大学で所属していた「漫画研究会」に、私を含め四人の同輩がいた。その内の二人が「学生の内にプロデビュー」を果たしているので、不思議なことでもないのかも知れない。
それは。取りも直さず、「私の手柄」でもない訳だが。
――しかし。彼らも一人の「頭脳&肉体労働者」であることを忘れてはいけない。

先述の友人が二人と、社会人になってからも三人ほど知り合った。
後の三人については、本当に「偶然の巡り会わせ」だ。
同人誌即売会で知り合った訳でもないし、メールをした訳でもない。
「知り合いと飲みに行った時に、偶然いた」レベルだ。
さて。
彼らは「自由」と「働く」を両立した、素晴らしい人たちだと、諸賢は思われることだろう。
だが。彼らは、異口同音に口を揃えた。
――「漫画が『大嫌い』になる時がある」、と。
その内の一人は「私は。漫画家にしか、なれなかった。『職業選択の自由』など、私にはなかった」と、こぼしていた。

その人の「メジャー度」に比例して、「漫画を心の底から憎む時期がある」傾向が強いようだ。
学生時代の同輩だった「週刊少年サンデー」で連載しており、単行本も在学中に数冊は出していた親友が、一番メジャーな漫画家だったように思う。
「親友」の定義は知らないが、少なくとも「彼が出した単行本の『著者近影』で、私が一緒に映っているくらい」には親しかった。
もちろん事前にオファーされていたし、私の顔は「彼が飼っている愛犬」にコラージュされていたが。
――彼はこう言っていた。
「時々。発作的に『部屋中の漫画を全部捨てたくなる』んだ。この世から漫画が消えてなくなればいいのにって――」

当時の彼が済んでいた部屋は、狭かった。
本棚は持っていた。それでは到底収まりきらない、「資料」としての漫画。
押入れを改造してビッシリと単行本を詰め込んでいた。
上の段の床が抜けやしないか、と訪問するたびに私はヒヤヒヤしていた。
一応フォローしておくが、彼は「病んでいる人間」では無い。
むしろ、彼ほど面白くてポジティブに「見える」人間は少ないだろう。
少なくとも、私と二人の時以外にネガティブな彼を見たことは無かった。
彼は。私と二人の時にだけ、悩みを漏らした。
自分は「他の人を楽しませる」のが好きだが、「本当に馬鹿だと思われているのではないだろうか?」と。
恐らく、日本中で俺だけが知っている「彼自身」なのだろう。

――そう。
「『好き』を『仕事』に」なんて言葉は、コピーライターが「苦悩して」作った言葉なのだ。

「自由」についたって、そうなのだ。
私は大学の一般教養課程で、「哲学」を履修した過去がある。
最初の講義で、教授は「『自由』とは何か?」というテーマで五〇人以上いる学生に、一人ずつ語らせた。
教授は「宿酔いだから、ちょっと失礼」と言って、退屈そうに教壇に伏せた状態で顔を上げて、私たちに「自由」を語らせた。
たまに。的を外れたことを言う学生に対して「お金が多いのが『自由』なの? 無人島に一つだけ持っていけるとしたら、お金を持っていくの?」などと指摘をしていた。
結局。
先生からは「解答」は提示されず、学生たちの意見だけで講義は終わった。
教授はチャイムが鳴ると同時に、話を続けている学生の話を打ち切って講義室から帰っていった。
当時は「あの講義はなんだ! 何もしないで問題提起するだけなら、私にだってできる」と腹立たしく思っていたが、今の認識は違う。
(買いかぶりかも知れないが)「教授は、講義で『自由』を実践していた」のだと。
結局のところ、「自由の定義」は答えなど無い設問だ。
それを深く掘り下げて思考していく「作業」自体が、哲学なのだろう。
――「自由」をハッキリ定義付けできる人間が、この世に何人いるだろう?
いや、それは皮肉が過ぎるか。
「自由」を定義づけられる人間などいないのだ。
もし。「万人を納得させる自由」という方程式を導き出せたなら、その人は「世界史に名を遺す」レベルの哲学者にして数学者になるだろう。
ラプラスも土下座するレベルの偉業だ。

「はたらくを自由に」を、具体的に自分に当て嵌めて想像してみよう。
まずは、三大欲求を満たそう。寝放題、食べ放題、とっかえひっかえセックスし放題。
趣味として、書籍は読み放題。
インターネット環境が整っている(若しくは、どんな要望や質問にも応えられるロボットでもいい)。
オートバイでも外出したい(その際、渋滞はストレスが溜まるから要交通規制)。
自転車で汗を流したい。
自己承認欲求を満たすために、世界中の人が心の底から私を崇めている。
それでいて、見ず知らずの人間が私への感謝による滂沱の涙を流して、大金を私に与える。
「なんて都合のいい想像だ!」と思われるかも知れない。

――だが。それは「動物園にいるパンダ」と、どこが違うのだろう。

結局のところ。
このコンテストが求めているのは、「公私ともに『真・善・美』を兼ね備えていて、できる働き方」という記事を求めているのだろう。
今の時代に当て嵌めてみると、「自分にとって得意分野の情報を発信して、自分の知識を他人に分け与えて、感謝と報酬を得る」というビジネススタイルになるだろう。

それは「虚業」だ。
日本中の人が、それを実践したら「国家」が破綻する。
農業に携わる人は、「美味しいニンジンの育て方」を公開して収入を得る。
本業よりも割が良かったら、ニンジン畑をカボチャ畑に変えて違うコンテンツを作成して収入を得るだろう。
本末転倒も、いいところだ。
「美味しいニンジンの育て方」を日本中の全員が知っていても、実践する人がいない状況になる。
「ネットの副業で、ラクラク副収入を得る」メソッドなんて、意地汚い下衆の人間がする事だ。
だから――。

――汗水流して苦労して、自分で稼いだ金で満足「してみせる」のが、私の『表題』に対する回答だ。

こんな記事を書いても、評価はされない。むしろ消されるだろう。
要請を受けて記事を消すのは吝かではないが、「note」のアカウントを私の断りなく消すのだけは御勘弁願いたい。
このコンテストに応募する方々の中で、「偶然、読んでしまった」方が一人でも居て、その人の「気付き」になれば良いと思って書いている。
それが「良い意味」でも「悪い意味」でも、「気付き」は人間が持つ最高の美徳だと思っているからだ。

私だって、こんな記事をフォロアーの方々に読まれたくはない。
人数の大小ではなく。私を好もしく思ってくれた人間に、自分の醜い部分を晒すのは勇気がいることだ。
結局、書いてしまった。
フォロアーはゼロになるだろう。それくらいの覚悟はできている。

非生産的な記事を書いてしまった、と自分でも思う。
私も読者もコンテストの主催者も得をしない、「三方一両損」な記事だ。

――コンテストの審査員の、「私より優れた方々」よ。
「三方一両損」の出典すら分からないならば、他人の文章を審査するような「不自由な仕事」を辞めて「自由にはたらく」方が良いのではないかな? と、私は愚考する。

#はたらくを自由に

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喜多仲ひろゆ
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