「有用性」と「フェイク」に対抗するためのメディア批評

 本稿では、『うんこかん字ドリル[i]』によって一般的にも名を知られるようになった、古屋雄作(映像作家・演出家[ii])を取り上げ、特に「メディア」との関連からその諸作品の意義を考察することが目的である。そのために、まずは彼が批評している現在のメデイアと社会の状況を確認し、彼がどのようにそれと対抗しているのかを最後に示すことにする。

 現在のテレビにおいて多く見られるのはライフハック系の番組であり、「明日から使える知識」と称して、たかが数秒から数分の時短・便利テクニックや数日後には忘れてしまう知識を紹介している。他にもクイズ番組やグルメ番組など、瞬間的な欲求(自分も知った気になれ、食べた気になれること)を満たせるものが人気である。さらに、ベストセラーの本は「~するための本」「~の技術」など、自分で考えることなど時間の無駄だと言わんばかりに、そのまま使えばいい知識を教えてくれる[iii]。「創造」や「革新」という言葉を連呼しながらも、他人が作った方法をただ右から左に移し、その瞬間にしか役に立たないことを「創造性」だとしたがる傾向にこそ、この社会の問題点がよく現れている。30年も続いている(「〇〇〇〇〇〇[〇は自粛]」人災的)不景気が「創造」や「革新」などどこにも起こっていないことを示してしまっているからだ。

 こうした瞬間的な「有用性」を「創造性」と混同したがる社会においては、あらゆる「物」や「人」、そして、あるゆる「行動」や「行為」が「何の役に立つのか?」という脅し文句に晒され、必ず何かの目的のために存在することを強制される。「自律性」によって定義されていた芸術作品[iv]ですら、 美術館に収容されることで、いつの間にか「教養のために」「勉強のために」「文化人であるために」鑑賞されるようになってしまった。『判断力批判』を著して「批評」という創造的行為を生み出したカントは、自身があらかじめ持つ鑑賞の目的、あるいは、先入観や関心から離れて、作品の「形式」からその面白さを判断することを勧めた。作品の「内容」に向けられたあらゆる目的(〜のために)から離れない限り、その目的や関心からしか作品を鑑賞できず、作品を純粋に楽しむことができないからである。「批評」は作品から社会の目的や有用性を切り離し、そこに含まれた新たな視点や思考を引き出そうとする営みである。それは社会との接点よりも、変化をもたらすような「臨界点」を創り出すことである[v]。

 さらに、マクルーハンは「メディアはメッセージ[vi]」であるという言葉を残し、メディアが明確なメッセージとして送ってくる「内容」よりも、さまざまなメディアの「形式」こそが人間の感性を変えてしまうことを指摘した。例えば、「文字」は聴覚よりも視覚を優位にさせ、一直線に文字を読むという行為が、論理を重視した思考の直線性さえも生み出してしまう。それに対して、「ラジオ」はそこに一方的に聴くという聴者の受動性を付け加えた。マクルーハンは「テレビ」が聴覚と視覚の平等を取り戻し、イメージと言葉の複雑な編集がもたらす思考の多様性と情報の取捨選択という視聴者の積極性に期待を込めていた[vii]。それに対抗するために、「テレビ」は笑い声・テロップ・ワイプを入れることで、「どこで笑うべきか」「何を聴くべきか」「どんな反応をするべきか」「どんな感情を持つべきか」を視聴者に制限づけている[viii]。

 現在の私たちを感性的に限界づけている、メディアの条件とは一体何であろうか。パソコンと携帯端末の普及によって、限られた人にしか手にできなかった、情報の発信手段があらゆる人へ行き渡るようになったのは明らかである。誰もがイメージと言葉を「自由に」編集し、世界に向けて発信できるようになった。しかし、それはその人が知り得た事実を解釈したものでしか[ix]ないのであり、その真偽をめぐって争いを生み出してしまう。「フェイクニュース」という言葉が流行るようになってから、メディアの役割は情報を伝えることよりも、解釈した情報を送りつけることで状況を変化させることに移行してきているように思われる[x]。大企業と権力者しか持てなかったメディアは「形式上」はあらゆる人の手に渡ったが、その「内容」はただ解釈の争いとなり、争いの相手からは「フェイク」と呼ばれてしまう。

 古谷氏はこうした現在のメディア状況をそのままで表現することによって、批評行為を生み出し対抗しようとする。彼には、存在しない魚である「スカイフィッシュ」の捕まえ方を紹介する『スカイフィッシュの捕まえ方』シリーズ、架空の言語学者・碑文谷潤教授による『人を怒らせる方法』シリーズ、何の役にも立たない商品を販売する虚構通販番組『ダイナミック通販』などの映像作品や、芸能人の発言を(悪意をもって)引用し「カリスマっぽく見える秘訣」を批判的に解説する『カリスマ入門』という著作がある。それらの共通点は既存のメディアにある「形式」を引用しつつも、「内容」はすべて完全なフィクションということにある。例えば、形式的には情報番組やドキュメンタリーとなっているが、その情報はもはや馬鹿馬鹿しい全く意味のないものである(「温厚な上司」や「一番大切な人」は怒らせる必要などない)。『カリスマ入門』は自己啓発本や実用本の形式をとっているが、その内容を参考にすれば必ず痛い目にあうことになるだろう。自分の有利なように解釈し状況を変えようとする「フェイク」と、社会との接点を断ちつつも私たちの社会とメディアの現在地を示す「フィクション」を区別して、後者に前者への批判的機能をもたせるのが古屋氏の戦略である[xi]。

 古谷氏は「『形式』がすべての人に引用され、自由に編集できることで『内容』が『フェイク』になる」というメディア状況をそのまま模倣しつつ、情報番組・ドキュメンタリーや自己啓発本・実用本の「有用性」から離れて、何の役にも立たないものを創り出してしまう。実際、彼の諸作品を鑑賞したときに感じられるのは、「馬鹿馬鹿しいもの、意味のないものを見てしまった」という、怒りと徒労感が入れ混じった「虚しさ」の感覚である。「自律性」によって芸術が定義されるならば、彼の諸作品ほど社会から自律しているものはないし、それが感じさせる「虚しさ」は「有用性」がもてはやされる社会では感じることが不可能になってしまったものである。現代では「寝ること」「食べること」といったただ生きるために必要な行為、あるいは「余暇」といった純粋に暇な時間すら、社会的に有用なため存在することを義務づけられる。彼の諸作品が表現する「虚しさ」は、現代において人間であることの「虚しさ」と重なっている。



[i] 例文に「うんこ」だけしか出てこない『うんこかん字ドリル』であるが、それすらも「有用性」に回収されてしまったのが古屋氏の限界であることをここで述べておく。

[ii] 古屋氏は1977年に生まれ、愛知県名古屋市出身であり、上智大学においては哲学を学んでいた。

[iii] 知識を持っていても、それを具体的な場面で用いて判断できるとは限らない。この世に二度と全く同じ判断が必要とされる場面など来ないからであり、あくまで経験から類推して判断するしかないからである。判断力の欠如としての「愚鈍」については、『純粋理性批判』pp210~212.を参照せよ。

[iv] カントが『判断力批判』において創造した概念は「無関心性」であり、特に提唱したのは真・善・美を分けることである。真や善に沿った「よさ」は美的な「よさ」とは異なるからであり、あらゆる関心から離れることでしか超越的主観性における諸能力の調和は生まれないからである。「自律性」は最も内なる他者の自由から、そのつど生じるのだ。

[v] 批評[critique]の語源は古代ギリシア語のκριτικήであり、その意味は真なる「形式」と偽の影にすぎないものを分けることであった。カントの『判断力批判』では、真・善・美の違いにおいて、「内容」から判断する真・善と「形式」において生まれる美的な趣味判断を分けることであった。古屋氏において、それは「『形式』がすべての人に引用され、自由に編集できることで『内容』が『フェイク』になる」状況において、「フェイク」と「フィクション」を分けることとなり、時代に応じて批評のあり方は変化している。

[vi] マクルーハン、1988年、pp.7~8

[vii] 各メディアにおける「ホット」と「クール」な関与度の違い、あるいは、五感の比率の変化については『メディアはマッサージである』を参照せよ。

[viii] かつてこの役割は古代ギリシアのメディアである「演劇」においてχορόςが担っていたものである。メディアは人間からは独立しており、むしろそれこそが人間の経験を生み出していく。メディアにおける「強化」「反転」「回復」「衰退」という四つのエレメントによる、過去と未来を行き来する「時間論」については『メディアの法則』を参照せよ。

[ix] ニーチェ、p.27

[x] おそらく、「フェイクニュース」は事実確認的な発話と行為遂行的な発話の意図的な混同による。OKマークを平和から憎しみのサインへと変えた米国の掲示板がその例である。

[xi] 古屋氏に似た試みを行ったのがフローベールである。『紋切型辞典』は「知っていることしか書かれていない辞典」であり、自分の知らないことを参照するための辞典としては役に立たないものだ。フローベールもまた「有用性」から離れた完全な「フィクション」としての芸術を創造していた。また、文章上の「私」と著者の「私」が混同されていたことに気づいた彼は、著者の実人生を解釈として投影する/される「フェイクとしての物語」と、言語そのものが自由に語る「フィクションとしての小説」を区別する。


                参考文献

イマニュエル・カント、『純粋理性批判 上』、篠田英雄訳、岩波文庫、2006年

イマニュエル・カント、『判断力批判 上下』、篠田英雄訳、岩波文庫、2010年

マーシャル・マクルーハン、『メディア論 人間の拡張の諸相』、栗原裕・河本仲聖訳、みすず書房、1988年

マクルーハン&フィオーレ、『メディアはマッサージである 影響の目録』、門林岳史訳、河出文庫、2015年

マーシャル&エリック・マクルーハン、『メディアの法則』、中澤豊訳、NTT出版、2002年

ニーチェ、『権力への意志 下』、原佑訳、ちくま学芸文庫、2010年

オースティン、『言語と行為』、坂本百大訳、大修館書店、1989年

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