リストアップからKJ法へ
交流・議論には二つの方向性があります。一つは「合意形成」、構成メンバー全員が納得するような最適解をつくることを目的とした交流・議論です。もう一つは個の見解の「深化拡充」を目指すものです。グループで意見を一つにまとめることを目的とするのではなく、個々人が他者の意見を参考にしながら自分の見解を深めたり広げたりする交流や議論のことです。
一般に、前者は「合意形成」ですから個々の意見をリストアップした後に整理したり調整したりということが必要ですが、後者にはそうした活動はそれほど必要とされないと考えられています。それぞれが考えていることを発表し、それぞれが必要な情報を取り入れたり取り入れなかったりすれば、自分の見解の「深化拡充」は交流によって成立するだろうというわけです。しかし、私はこれを誤った捉えだと考えています。
例えばディベートを考えてみましょう。
ディベートはある論題に対して賛否に分かれ、賛成派は最後まで賛成派として主張し続け、反対派は同様に反対意見を主張し続けます。この形式が教育界にディベートが導入された当時(実は教育界だけではありませんが)、〈空気〉への同調を旨としつつ、常に全会一致の〈合意形成〉を図る会議を慣習としている日本人にはなかなか受け入れられず、「日本人には向いていない」とか「口先人間をつくるだけだ」といった批判を受けました。
しかし、ディベート本来の目的は、仮に賛否に分かれて主張してみることで、それぞれの見解にどのようなメリット・デメリットがあるかを探り、整理しようとするところにその本質があります。ディベートの議論そのものもジャッジも、言わば仮に取り組んでみる〈ワーク〉なのであり、その本質は事後にその施策を採用すればこうしたメリット・デメリットがあるし、採用しなければこうしたメリット・デメリットがあるのだということ的確に把握することにあるのです。いわばディベートとは「思考実験」なのです。ディベートが「ゲーム」であると盛んに言われるのはそのためです。
個の見解を「深化拡充」させるタイプの交流・議論には、ディベートと同様の構図があります。自分の見解が広く深い次元で確立するためには、「合意形成」型同様、それぞの意見を整理したり調整したりしながら、何が共通点で何が対立点なのかをしっかりと認識した方が良いのです。とすれば、「合意形成」型だからしっかりと検討し、「深化拡充」型だから検討よりもそれぞれが考えを言うだけでいいということにはならないはずです。教師がそうした甘さをもっていると、子どもたちも次第に「言いっぱなし」の交流へと堕していきます。それではいけません。個の見解を確立するタイプの交流・議論もまた、リストアップの後に「合意形成」を図るのと同様の手立てで検討してみるべきなのです。
さて、個々人が意見をもち、交流が始まってリストアップが終わったら、まずしなければならないのがそれぞれの意見を整理することです。①どこに共通点がありどこに相違点があるのか、②反対方向のことを言っている対立点はないか、③一見異なったことを言っているように見えて質が同じであり高次の語でまとめられるものがないか、逆に④一見同じようなことを言っているように見えて、前提にしている条件が違ったり例外が想定されていなかったり場合分け思考ができていなかったり等によって、分けて考えた方が良いというものがないかといった、さまざまなことが検討される必要があります。
こうした検討を行うためには、子どもたちに「KJ法」を身につけてさせるのが一番の近道です。KJ法は一般に「ブレイン・ストーミング」とセットで用いられ、各々から出されたアイディアをグルーピングして整理するとともに、整理されたそれぞれのグループ同士の関係を検討する手法です。実は構成メンバー個々の見解がリストアップされるということは、ブレイン・ストーミングで全員のアイディアがすべて出たのと同じ機能をもっています。もちろんブレイン・ストーミングで提出されるアイディアほど多くのアイディアが並ぶわけではありませんが、その機能性は同じです。
「合意形成」型の場合にはまさに合意形成を図るための前提として意見が分類・整理されますし、「深化拡充」型の場合にも、「そうか、自分の考えていたことはそういう意見と同じ質のものだったのか」とか、「いやいや、私の意見はそれと同じにされては困る。それはかくかくしかじか……」というような思考が生まれます。こうした体験を繰り返し、こうした思考に慣れることによってしか、先の①~④のような検討要素に取り組めるようにはならないのです。
AL授業はある意味で、見解を「コーディネイト」することによって学ぶ授業形態といえます。「合意形成」型が個々人の見解の検討からグループ全体の見解をコーディネイトしようとするのに対して、「深化拡充」型が検討によって個々人が自分自身の当初の見解を改めてコーディネイトしようとするという違いがあるだけです。要は目的が異なるというだけで、必要な思考過程には大きな違いがないのです。
リストアップからKJ法へという交流・議論の過程は、提出された見解を検討するのに必要な要素を発見させてくれます。グルーピングは共通点を発見させ、グループ同士の関係の検討は対立点を発見させます。どのグループにも属さない一匹狼的見解が、硬直した全体の方向性をブレイクスルーに導くこともしばしばです。こうした思考さえ働けば、既に「コーディネイト」へと走り出しているとさえ言えるのです。