空中戦と地上戦
一般的な授業は、教師が発問して子どもたちが挙手して答えることを基軸に進む。ある子どもが挙手してそれに答え、教師が「なるほど…」などと訳知り顔で評価する。「他にはないかな?」と言って、他の子に促すのも定番だ。その繰り返しである。
しかし、こうした授業は、一部の「出来る子」を中心とした授業に陥りやすい。それを野口芳宏氏は「上澄み型授業」と揶揄した。私はこれを「国語科授業の空中戦」と揶揄している。
国語の授業では、発問や課題に対して子どもたち全員にまずは意見をもたせることが大切である。しかもそれをしっかりとノートに記述させる。その作業を経ないと、話し合いや交流が始まったときに、授業は「上澄み」や「空中戦」に陥りやすい。
「協同学習」や「ファシリテーション型授業」は、こうした「挙手-指名型授業」の悪弊を踏まえて交流単位を小集団にすることによって「全員参加型授業」を保障しようとしたところにその特徴がある。しかし、交流単位が少数になったからと言って、傍観者が出る基本構造は変わらない。やはり全員に意見をもたせるという準備段階がなければ、一斉授業よりはマシというだけで、傍観者はやはり出てしまうのである。
こうした考えに基づいて、私は準備学習に念入りに取り組ませることにしている。この準備作業があれば、小集団交流はまず全員の見解をリストアップすることから始められるようになる。すべての見解がリストアップされれば、黙っていてもその違いの所以を明らかにしようとする方向に話し合いが進んでいく。事前に、リストアップすべき見解をつくらせておくということが、ファシリテーション(交流の促進)機能として、大きく位置づけられているのである。
私はこうした①必ず子どもたち全員に意見をもたせる、②それをノートに記述させる、③すべての見解が揃ったところで交流に入るという3段階に基づいた授業を、「国語科授業の地上戦」と呼んでいる。
国語科授業は「空中戦」に堕してしまってはいけない。①教材本文に基づいた意見を尊重する、②すべての子の意見がノートに記述されている、という二つの「地上戦略」が保障されてこそ、地に足のついた意見に基づいた交流がなされるのである。
その意味で、本時でも「第一次自己決定」の時間としてまるまる1時間を費やすのである。その機能性を考えれば、1時間の時間は決して惜しくない。むしろこれなくしては次時が機能しなくなるというくらいの重要な時間と言える。