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リストアップ

子ともたち一人ひとりに交流すべき「個人の意見」をもたせることが大切だと冒頭に述べました。個々人が「発言すべき内容」をもっていないのに交流せよというのはナンセンスだからです。このことは何度強調しても強調しすぎるということがないくらいに重要な観点です。しかし、各々が意見をもちさえすれば自動的に交流が始まるのかと言えば、ALはそれほど甘くはありません。子どもたちに意見をもたせたら、まずはそれらの意見を交流メンバーの中で一つ残らずリストアップすることが大切です。

交流には「拡散型」の交流と「収斂型」の交流とがありますが、どちらにしても最初に必要なのは構成メンバーの考えていることがすべて「その場に出る」ということです。それぞれの意見の共通点はどこにあり、相違点はどこにあるのか。それが明らかにならないと「対話」は成立しません。そのためには四人なら四人、六人なら六人の考えていることのすべてが共有される必要があるのです。

こうしたリストアップの過程を経なくても、「交流せよ」と言えば一見それらしい活動は成立します。しかしそこには、声の大きい者や押しの強い者が交流・議論をリードし、おとなしい子、消極的な子は自分の意見があっても引っ込めてしまう傾向があります。職員会議や校内の各種会議で皆さんもそういう体験をしたことが何度も何度もあるはずです。大人でさえそうなのですから、この構造は普遍と見なければならないでしょう。

交流・議論では「対話」が成立しなくてはならないと言われます。「対話」とは端的に言えば、立場の違いを越えて、或いは見解の違いを越えて、それらを融合したりWIN-WINの関係を築いたりするということです。決して声の大きい者・押しの強い者がリードして、その他大勢がそれに従うことではありません。とすれば、まずは「立場の違い」「見解の違い」をメンバー間で明らかにするのは当然のことです。

しかし、このリストアップが多くの授業で徹底されていない現状があります。インストラクションにおいても、交流をすることにどんな価値があるのか、この課題に取り組むことにどんな価値があるのかばかりが強調され、どのような過程で話し合わうべきなのかが軽視されているのです。もちろん子どもたちがAL授業に完全に慣れ、教師があれこれ指示しなくても最初にリストアップできるようになれれば良いのですが、私の経験上、子どもたちにそうした過程の大切さが腹落ちし、常にそうした過程を踏めるようになるには中学生でも三ヶ月から半年くらいはかかります。一度は「できるようになった」と思っても、時間がないときや交流の見通しがもてたとき(子どもたちが「この交流はそれほど苦労なく簡単に終わるだろう」と思ってしまったとき)などにはこの過程が軽視されがちです。それは「定着している」とは言えないのです。

かつて「挙手-指名型」の一斉授業が盛んに批判された時期がありました。教師が発問し、一部のできる子たち数名が挙手、教師はその子たちを指名して授業を進める、そんな授業に対してです。しかも教師は挙手した子を指名して教師の意図した答えを言えば「そうですね」と引き取り、意図しない答えが出た場合には「他にはないかな?」と他の発言を促す。子どもたちに起こるのは「教師が何を求めているのか」という教師の意図を探る思考でしかありません。こうした授業は一部のできる子だけを相手にした授業として、一部では「上澄み式授業」などと揶揄されました。

さすがに最近はこうしたあからさまな「上澄み式授業」はほとんど見られなくなりました。それは学校教育界にAL型授業の発想(「協同学習」「ファシリテーション」「学びの共同体」『学び合い』など)が持ち込まれたことと決して無縁ではないはずです。

しかし、AL授業において、各グループで交流するときに各々の意見がリストアップされることなく、おとなしい子や消極的な子の見解が交流の俎上に上がることなく消えていくのだとしたら、「上澄み式」の「挙手-指名型」の一斉授業といったい何が違うというのでしょうか。声の大きい子、押しの強い子、積極的な子、おしゃべり好きな子、ノリの良い子だけが活躍して交流・議論をリードし、その子たちの意図する答えが「グループでまとめた意見」として発表されるのだとすれば、それは教師の意図する答えが出るまで発言者がたらい回しにされる従来型の一斉授業と機能的には変わりないのではないでしょうか。そうした交流活動は、「正しい答え」とされるものの基準が「教師の意図」から「一部の子どもたちの意図」へと移行しただけで、機能的にはそれほどの変化がないのです。子どもたちの中に、或いはグループ(小集団)の中に「対話が成立した」などとはお世辞にも言えません。

繰り返しになりますが、課題を与え、交流・議論が始まったら、まず何より優先しなければならないのは構成メンバーの考えていることのすべてが「その場に出る」ということなのです。そしてそれらの見解の結びつきが整理され、対立点が明確になったとき、初めてALが起動し始めるのです。この過程を経ずして行われる交流や議論には、必ず傍観者が生まれます。遠慮が生まれ、諦感が生まれ、「人任せ」が生まれます。「センス・オブ・オーナーシップ」つまり「当事者意識」のないままに交流・議論が進んでいる……そう感じる子が必ず出ます。

そして、子どもたちにこの〈リストアップ〉の過程が大切だと腹落ちし、絶対に軽視してはいけない過程であると自覚されるには、多くの時間と体験とが必要とされるのです。

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