属人性
「霜降り明星」というお笑いコンビがいます。ボケのせいやとツッコミの粗品で舞台狭しと駆け回ることで有名な若手コンビです。言うまでもないことですが、せいやには独特の「ボケ」のスキルがあり、粗品は独自の「ツッコミ」のスキルをもっています。
ここで考えてみて欲しいのですが、せいやの「ボケ」のスキルを粗品が身につけ、粗品の「ツッコミ」のスキルをせいやが身につける。そして、コンビのボケとツッコミを入れ替えたとしたら、「霜降り明星」は同じようにウケるでしょうか。想像してみてください。せいやのスキルを粗品が用い、粗品のスキルをせいやが用いている姿を。
おそらく、多くの読者は否定的に思われるはずです。想像だにできないという方も少なくないでしょう。
恋愛にスキルというものがあったとします。その「恋愛スキル」に七割の成功率があるとされるものや四割の成功率があるとされるものがあったとしましょう。それらのスキルを菅田将暉が用いたときと中村倫也が用いたときとでは、その効果は同じでしょうか。霜降りせいやや粗品が使った場合ならどうでしょう。
そろそろ私の言いたいことがおわかりいただけたでしょうか。そうです。実はスキルというものは、使う人間によって効果が異なるのです。
なぜなのでしょうか。それはスキルの効果というものが、使う人間の〈キャラクター〉と切っても切れない関係にあるからです。私はこれを、「スキルの属人性」と呼んでいます。
読者の皆さんも、何らかの営業を受けた経験がおありだと思います。同じような営業スキルで商品を紹介されたというのに、ある営業マンからは買おうと思えなかったけれど、ある営業マンにはその気にさせられてしまった、そんなことがないでしょうか。何が違ったからなのでしょうか。それは決して、イケメンだったからとか話が上手かったからとかいった理由だけでなく、もっと全人的な印象によるものだったのではないでしょうか。
実は、教育のスキル、教師のスキルも同様の構造をもっています。同じスキルだったとしても、使う人によってその効果が異なるのです。若い時にしか使えないスキルもあれば、ある程度の年齢に達しないと使えないスキルというのもあります。こわもての教師にしか使えないスキルもあれば、優しい印象の教師にしか使えないスキルというのもあります。ある特殊な教師にしか使えないスキルというものもあるかもしれません。そもそもスキルというものは、使う者の〈外〉にあるものではなく、使う者の〈内〉にある、つまり〈キャラクター〉と切り離せないものなのです。
私は前に、多くの教師の頭の中で、有効性の高いスキルというものが必ずしも整理されていない現実があると述べました。それが新卒教師、若手教師にスキルを教えることのできない理由であるとも述べました。そしてそれは、いかに経験を重ねた教師であっても、常に試行錯誤の中にいるのであり、百発百中のスキルなど、誰ももってはいないからだとも述べてきました。実は経験を重ねてきた教師たちも、かつて幾度も先輩教師のやり方を真似して、成功したり失敗したりした経験を無限にもっているのです。そしてある教師が成功しているやり方を自分が使えなかったり、或いはある教師が決してしないやり方を試してみたところ図らずも自分は成功したり、というような経験を積み重ねてきたのです。いかなるスキルにも「向き不向きがある」ということを、すべての教師が熟知しているのです。
多くの教師が簡単に「こうすればいいよ」と新卒教師や若手教師に教えないのは、誰が使っても上手く行くという「絶対スキル」というものが教師の世界には存在しないからなのです。その証拠に、誰が作っても同様となるような事務仕事、例えば職員会議の提案文書の作り方や管理職に提出する人事考課に関する文書、教委に提出する文書の書き方等であれば、みんなすぐに「こうすればいいよ」「こうすれば効率的だよ」と教えてくれるはずです。
しかし、子どもへの対応の仕方、保護者への対応の仕方、授業運営の仕方、学級運営の仕方……となるとそうはいきません。それは多くの教師にとって、自分のやり方を若手に強制してはいけないと思われるものたちだからです。事務仕事であっても、学級通信の書き方、通知表所見の書き方といった自分の〈キャラクター〉と不可分のものについては同じ構造をもちます。むしろ、新卒教師や若手教師に対して、「これがいい」「これがすべてだ」「このとおりにやるべきだ」と言う先輩教師がいたとしたら、その教師はかなり「危ない教師」であり、若手教師としては避けた方がいい教師の部類に入ると私は思います。そうした教師は自分が試行錯誤の中で少しずつ成長してきたことを理解していない「勘違い教師」か、若者を支配したい欲求をもっている「不誠実な教師」かのどちらかだという気さえします。
高校に入学し、初めて地域から離れて新しい人間関係を紡いでいかなければならない。
好きな人ができて、どうにかしてその人に近づけないかと日々考えながら模索を続ける。
教職とは、こうしたときに感じた、見通しをもてない中でも、何とか手立てはないかと試行錯誤しながら一進一退を繰り返す、そうした営みに近いものなのです。