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メイク・マイ・チョイス

これまで自分が学年主任をしたときに出会った若者たちを例に述べてきました。僕は今年(執筆時の二○一八年度)も学年主任であり、学年には新採用から三年間一緒に学年を組んできた担任が二人います。この二人に成功体験をさせ、「教師というのはいいもんだ」と感じさせることは僕の義務です。校長から任された学年主任という仕事の中には、この二人を育てることが含まれていたのであり、僕自身もそれを承知で引き受けているわけですから、これは義務なのです。もちろん、義務だからこの二人に関わっているわけではありませんが、構造的にはそういうことになります。彼らを育てないという選択権は僕にはありません。ちょうど担任した生徒たちと関わらないとか、育てたくないとかいう選択権が僕らにないのと同じことです。

しかし、他学年に所属する若手教師、官制研究会で知り合った若手教師、その他公務外で知り合った若手教師についてはその義務はありません。この若者は育てたい、この若者には関わりたくない、この若者には関わる必要がない、そうした選択が許されます。

最近はハラスメント概念が大きく意識されるようになりました。いわゆる「セクハラ」は許されないにしても、「パワーハラスメント」の拡大解釈が若手教師を育成するのに大きな支障を来している現実があります。確かに報道されているようなパワハラにはどう考えても許されないというものがたくさんありますが、これを拡大解釈して仕事ができなくても自分は尊重されるべきだと考えている「勘違い若手」も多くなってきています。自分には教えてもらえる権利がある、そう考えている若者たちです。

僕は正直なところ、そうした雰囲気を少しでももつ若手には関わらないことにしています。例えば敬語を使われることが尊重されていると感じられているのなら、敬語を使って上げればいいし、呼び捨てられることが尊重されていないと感じているのであれば若造を「○○先生」と呼ぶことくらいは簡単なことです。それで尊重されていると感じるのであればおめでたい話に過ぎません。おめでたい環境の中でおめでたいままにするべき苦労をすればいいだけです。世の中は不思議とよくできていて、そういう若者はには痛い目を見る日が必ず来ますから、そこで自分自身で道を切り開いて行ってもらえば良いのです。僕にはまったく関係のないことです。

ただし、そういう若者は全体を見る目とか他人に対する配慮とかということに欠けている場合が多いので、自分の仕事に支障が出るような提案をすることがしばしばです。そういうときには公の会議の場で、要するに多くは職員会議の場でちゃんと反対し、ここに支障が出る、ここに対する配慮が足りないと突っぱねればいいのです。

「ハラスメント」の概念はいじめと同様に捉えられているところがあります。いじめる側がどういう意識であったにせよ、いじめられた側にいじめと感じられればそれは「いじめ」であると。同様に、現代社会にはハラスメントを受けた側がハラスメントと感じればそれはハラスメントだと認定されるという機運があります。その裏には、職場の人間関係のすべてを公的なものとし、私的な人間関係の潤いを排除しようという論理があります。とすれば、それは会議という公的な場で公的に反論することが許されるということの裏返しでもあります。公的に扱われたい者は公的な責任を果たさねばなりません。公的な場で公的に求められたことには公的に応える責任を伴うのです。人間関係から私的な潤いを排除するということはそういうことです。何も遠慮する必要はありません。形だけは一人前扱いしてあげれば良いのです。

僕は原則として、他学年の若手教師が困ったときに相談に来ても、割と相談に乗らない姿勢をもっています。「それは自分の学年の学年主任に訊きなさい」と、僕はその立場にないことを強調します。他学年の若者に影響を与えることは越権行為であるという意識さえもっています。もしかしたらその学年主任は考えるところがあって、意図的にその若者に試練を与えているのかもしれません。もしかしたらその若者が所属する学年の運営意図を理解せずに自家中毒的になっているのかもしれません。そうしたとき、外野から助言することはその学年の運営に悪影響を与えることさえあります。

自分の学年の若者が他の人に助言を求めることを僕自身はいやがりませんが、それは僕に若者がなにをやったとしても対応できるという余裕があるからです。しかし一般に、そうした余裕をもつ先輩教師はそう多くはありません。下手に影響力を発揮しては、その若者の直接の上司との人間関係に支障を来し、自分の仕事がやりづらくなることさえあり得るのが職員室の構造であり人間関係の構造です。

かつての日本的な職場の構造、人間関係の構造が壊れてくると、自分の責任下にはしっかりと対応し、責任外のところでは公的な部分以外では手を出さない、こうした構えが必要となります。多くのハラスメントの報道を見ていると、自分の責任下にいる人、つまり自分の直接の部下から訴えられる場合よりも、直接的な利害のない、もう少し離れた人間関係下においてついつい私的な人間関係の作法で接してしまったということによって訴えられている場合が多いように感じています。

若手を育成する、先輩力を発揮するというとき、直接的な責任を伴わない場合には関わる若者は自分で選択する、それ以外は公的な接し方しかしない、最近はこれも重要な原理である、そう僕は強く感じています。

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