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「創造」と「複合」

新しいものを創り出すことを「創造」と言います。あれは創造的な仕事だ。あの人は創造的な人だ。これからの仕事に必要なのは創造性だ。クリエイティヴであることは今後、教師という仕事をしていくうえでも重要なキーワードになるだろうと思います。

道徳の授業づくりにおいても、「創造性」が必要です。子どもたちが達成感を抱くことのできる授業、子どもたちが深く思考できる授業、子どもたちが題材について多面的・多角的に捉えることができるような授業、教師はそんな授業を創造しなくてはなりません。 でも、自分はそんな創造性、創造力をもち合わせていない。多くの教師はそんなふうに感じています。ときには、「自分には創造性がある」「自分にはオリジナリティがある」と自信をもっている若手教師も見かけますが、多くは何かの情報に触れたときの思いつき程度のものを自慢げに「自分が開発した」とアピールしているだけで、「我が強い」「自己主張が強い」の域を出ていません。

では、創造性があるということ、クリエイティヴであるということは、いったいどのようなことを意味するのでしょうか。

二つ以上のことを組み合わせることを「複合」と言います。私は「創造性」を、或いは「クリエイティヴであること」を、二つ以上のことを組み合わせることに長けていることだと捉えています。

一般に「創造」というと、新しいものをゼロから生み出すことだというイメージがあります。しかし、ゼロから新しいものを生み出すということがあり得るのでしょうか。英国留学で学んだ西洋的自己なくして夏目漱石はあり得ません。フィッツジェラルドやサリンジャーなくして村上春樹は現れません。ましてや私たちのような凡人がゼロから何かを生み出せると思う方がどうかしています。「創造」とは、「既にあるもの」を組み合わせて新しい意味を生み出したり、「既にあるもの」をこれまではその観点で論評されてこなかった「既にある観点」で見直すことによって新しい意義を見出したりといった、そうした営みなのではないでしょうか。

道徳授業づくりの例で具体的に見てみましょう。

二○一八年一○月一二日のことです。「TEAM BEYOND」がパラリンピック候補選手のポスターを東京都内に一斉に掲示しました。「TEAM BEYOND」とは都が主催する、パラスポーツを通じて、みんなが個性を発揮できる未来を目指したプロジェクトです。要するに二○二○年パラリンピックに向けて、都民に対してパラスポーツに興味をもってもらおうとの試みの一つでした。パラリンピック候補選手が多数取り上げられていたのですが、実はそのうちの一枚がネット上で問題視され、炎上騒ぎとなります。都は掲示から三日後の一五日には当該ポスターを撤去。誤解を与えたとして謝罪しました。

そのポスターはパラバドミントンの杉野明子選手(上肢障がい。生まれつき左手が不自由)の写真とともに、「障がいは言い訳に過ぎない。負けたら、自分が弱いだけ。」というキャッチコピーが施されていました。これに対して、「障がいの程度は、千差万別なんです」「障害を言い訳にするな、というのは、典型的な障害者差別の言い方です」「『障害は言い訳にすぎない』と言われてしまうと、もう何もできなくなってしまうほど、ひどい言葉だと思います」と、ネット上では大騒ぎとなりました。これを受けて、都はポスター撤去、謝罪という判断をしたわけです。

実はこのコピーは杉野明子選手本人が、自らを鼓舞する言葉としてインタビューに答えた発言がもとになっています。本人が言えば「頑張ろう」としている発言として受け止めることができるのに、ポスターとして掲示されてしまうと障がい者差別的な発言に感じられてしまう。そうした誤解の典型として捉えられるかもしれません。

このポスターを巡る一連の騒動は、道徳授業として教材化する価値があります。杉野選手本人の意図や都の意図と、ポスターを見た人たちの感受とのズレ、このズレはどうして生まれてしまったのか、これを子どもたちに考えさせることは意義あることでしょう。おそらくは全国に、このポスターを教材化した教師はたくさんいるのではないかと想像します。そしてそうした教師たちはその授業を、時事的な問題を教材化して子どもたちを多角面・多角的な深い思考に誘う、創造的な授業だと自己評価しているかもしれません。

しかし私は、これだけでは「いくら自らを鼓舞するための言葉でも、時と場合によってはそれが差別と誤解されることがあるので気をつけよう」という話にしかならないと思うのです。もう一つ、別の教材を組み合わせる必要があるのではないか。

モハメド・アリに「不可能とは、現状に甘んじる言い訳に過ぎない」があります。人種差別と闘い続け、ベトナム戦争徴兵に反対してチャンピオンベルトを剥奪され、それでもなお挑戦し続け、世界王座に返り咲いたボクサーの言葉です。この言葉は称揚され、尊敬を集め続けているというのに、なぜ杉野選手のそれは差別を助長する言葉と受け止められてしまうのか。こうした思考を促せば、子どもたちの思考は多面的・多角的と評価されていい深いものになると思うのです。

創造性とは、一つのことをストレートに問うよりも、一見関係のないように見える二つ以上の事柄を組み合わせたときに生まれる。その二つ目を見つけるまでは安易に教材化しない。私はこうした姿勢が授業づくりにおいて重要な姿勢であると捉えています。

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