語り手の批評
芥川龍之介に『蜘蛛の糸』があります。
地獄に落とされた犍陀多のエゴが中心的な出来事として描かれています。犍陀多は自分だけが助かろうと、後に続いて蜘蛛の糸を昇ってきた他の罪人たちに昇ってくるなと叫びます。これはオレの糸だと……。それを見た御釈迦様はせっかく救おうとしたのにまだその姿勢かと哀しく感じ、蜘蛛の糸を犍陀多の手元で切るのです。
『蜘蛛の糸』は道徳でも国語でも取り上げられる作品です。しかし、道徳では犍陀多の心の在り方に焦点化するばかり、国語では犍陀多と御釈迦様の関係に焦点化するばかりで、その「物語世界」に閉じられた授業が展開されています。しかし、私はそうした「物語」を「語り手」がどのように「批評」しているか、またその「批評」を読者がどう「批評」するかこそが文学鑑賞・文学批評の要諦だと考えています。つまり、「『語り手の批評』を批評する」のです。
作品の末尾に次のような叙述があります。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。
この一文には「語り手の批評」が表出されています。「蓮池の蓮」という「そんな事には頓着」しない存在。それがこのように叙述されるということは、「そんな事」に「頓着」している存在があるわけです。言うまでもなくそれは犍陀多であり御釈迦様であるわけですが、ここでは語り手が犍陀多を相対化して見ている御釈迦様をも相対化して見ていることが窺えます。こうした犍陀多の在り様に拘泥する御釈迦様もまた、犍陀多同様、「そんな事」に「頓着」する相対化されるべき存在であると。自らが助けようとした罪人がそのエゴによって救われないことを哀しく思う姿勢、それもまたエゴであると。犍陀多と御釈迦様はそう変わらない存在であると。ここに「語り手の批評」があるわけです。
さて、あなたは語り手のこの批評をどう捉え、どう批評しますか?
おそらくはこれこそが、『蜘蛛の糸』が読者に投げかけている問いなのです。
もう一つ例を挙げましょう。
新美南吉『ごんぎつね』は、「思いの伝わらなかった悲劇」ばかりが取り上げられます。「青いけむり」の象徴性を問う授業もいまだにたくさん見られます。これらもまたその「作品世界」に閉じられた授業であると言えます。『ごんぎつね』の冒頭には、この物語が村の茂平さんから聞いた話であることが語られます。つまり、『ごんぎつね』には村に伝承されてきた物語を聞いたという「語り手の立場」が明示されているわけです。この物語を村に伝承し得る人物とはいったい誰でしょうか。それは兵十を措いて他にはいません。兵十は当時の自分の死角となっていた出来事までその意味を想像し、それぞれに伴うごんの心情を解釈し、この物語を村の人々に語り伝えたのではないか。それがいまでも村に伝承されている、語り手はそのことを訴えているのではないか。これが『ごんぎつね』における「語り手の批評」だと捉えるのが妥当です。
繰り返しますが、「語り手の批評」をこそ批評する、それが文学鑑賞・文学批評の要諦だと考えています。