神は細部に宿る
右手の薬指の先を見つめる。薬指の二つの間接を90度に折ってみる。二つの間接を120度ずつにしてみる。右手の薬指を時計回りにまわしてみる。反時計回りにもまわしてみる。どれもこれも簡単にできる。右手の薬指に神経を集中しているからだ。
でも、人間は右手の薬指に神経を集中させながら生きられない。食事をしているとき、友達と会話しているとき、車を運転しているとき、僕らの意識は右手の薬指には向かない。もしも右手の薬指に神経を集中させながら生きたら、数日で死んでしまうに違いない。道を歩いているうちに車にはねられたり、溝に落ちたり、車を運転しているうちに大暴走したり、そんなことになってしまうに違いない。
神は細部に宿ると言う。僕らが友人と話しているとき、僕らの意識は会話の内容や友人の表情に向いている。でも、そんなときにも、僕らは無意識のうちに右手の薬指を動かしているはずなのだ。その動きに、友人は何らかの意味を見出しているかもしれない。僕らだって、友人の唇の動きや、足の動きや、肩の動きにいろんな意味を見出しているのだから。そしてそれが、細部に宿ったこの人の神だと感じることがあるのだから。
言葉で表現するとき、多くの人はだれもがそこから概念的な意味を読み取ることのできる自立語ばかりを意識している。「あなた」という名詞や、「愛している」という動詞や、「美しい」という形容詞や、「静かだ」という形容動詞や、「ゆっくり」という副詞や……そういうものに囚われている。でも、相手が読み取るのはそうした大文字の言葉じゃない。もっと細部なのだ。語り手が無意識に投じてしまっている細部なのだ。例えばそれは、助詞だ。例えばそれは、助動詞だ。「きみ、頭いいねえ」と言えば良いところを、人はときに「きみ、頭はいいねえ」と言ってしまう。この「は」という副助詞を、相手は聞き逃さない。一瞬でその裏の意図を理解してしまう。「なんにする?」と問われて、「珈琲でいいわ」と応えてしまった女性。男は「なぜ、珈琲がいいわ」と言わないのかと憤る。言葉にはしないが、憤る。こんな例のなんと多いことか。それで人間関係が壊れてしまうなんてことさえよくある。
でも、人は助詞や助動詞ばかりを意識して言葉を発することはできない。それはちょうど、僕らが右手の薬指を意識しながら生きられないように、左足の小指だけに力を込めることができないように……それと同じことだ。なのに、神はやはり、細部に宿ってしまうのだ。