人生の同伴者
あなたに「敬愛する著名人」はいないでしょうか。俳優、ミュージシャン、スポーツ選手、政治家、思想家、作家、歴史上の人物……何でもいいのです。一人挙げられませんか?子どもの頃から大好きでいまだに聴き続けているミュージシャン。この人の新作は必ず見るという映画監督や俳優。この人の新作は必ず読むという思想家や小説家。いつの頃からか人生の同伴者となり、行動の模範となっている歴史上の人物。そんな「敬愛する著名人」があなたにもいるはずです。
では次に、その「敬愛する著名人」のどんなところを敬愛しているのか、箇条書きで書き出してみてください。本書を読むのを少しだけやめて、紙とペンを用意して思いつくままに列挙してみるのです。その人物が自分を惹きつけるのはどんなところか。最も尊敬に値すると感じたエピソードは何か。そんなことを書き出してみるのです。いかがでしょうか。思いのほか簡単に思いつくのではないでしょうか。そりゃそうです。その人物との付き合いは長く、さまざまな場面であなたに影響を与えてきたのですから。あなたという人間の精神性の何%かはその人物がつくってきたとさえ言えるのですから。
さて、これからが本番です。そのあなたの「敬愛する著名人」のあなたが敬愛するところ、それを象徴するような敬愛に値すると感じているエピソードには、道徳授業の資料として教材化できる可能性がないでしょうか。二十二ある内容項目のどれかと合致しませなか。あなたはなぜ、その人物を教材化しないのでしょう。もちろん発達段階の問題として、この人物を低学年では扱えないといったことはあり得るでしょう。しかし、高学年ならば十分に授業化できるのではないでしょうか。あなたのアイデンティティの、少なくとも一部を構成してきた人生の同伴者を教材化せずして、あなたは何をもとに子どもたちに人生の在り方を語ると言うのでしょうか。その人物はあなたにとって、最優先で教材化すべき人物なのではないでしょうか。
しかも、その人物を教材化するにあたって、あなたには「素材研究」の必要がないのです。あなたはその人物を熟知していて、子どもたちがその人物の生き方やエピソードをどう受け止めるか、要するにいきなり「学習者研究」から始められるのです。いや、「素材研究はするべきだ」と思うのなら、ためしにその人物の名前で検索をかけてみてください。Wikipediaをはじめとして、その人物について数々の記事があるはずです。中にはあなたの知らないエピソードもたくさんあることでしょう。でもそれを調べる時間は、あなたにとって楽しくて楽しくて仕方ないという時間になるはずです。決して授業づくりのための「お仕事」としてやっている意識など決して抱かないはずなのです。
さあ、その人物を教材化したとき、このエピソードを紹介したとき、子どもたちはどんな反応を示すのでしょうか。想像するだけでワクワクしませんか?
こうした対象は人物だけではありません。数年に一度、何度も読んだのにどうしてももう一度読みたくなってしまう小説。数年に一度、どうしても観たくなる映画、なにかネガティヴなことがあったときに年に何度も聴いて励ましてもらっている自分の中の名曲。だれもがこうした人生の同伴者をもっているものです。それらは子どもたちに伝え、考えさせる価値があるのではないでしょうか。そして何より、その授業はあなたが心の底から本気になれる、〈当事者意識〉の塊のような授業として構成されるはずなのです。
第一節「当事者性の原理」において、私は「すべての教師が、自分が〈当事者意識〉をもって『本気』になれる授業を年間にどれだけ開発できるか」に教科道徳の成否がかかっていると述べました。私はすべての教師が、このような自分の人生と深くかかわ自主開発教材の授業をどれだけたくさんつくるかということに、その要諦があると考えています。
これまで読者に良いことばかりを言ってきましたが、実は自分の「敬愛する人物」やさまざまなジャンルの馴染み深い作品を扱ったからと言って、必ずしもその授業が子どもたちに機能するとは限りません。教科書教材よりは成功確率が上がることは確かですが、当然のことながら失敗することだって少なくないのです。しかしそこでは、教師の中に教科書教材の授業で失敗した場合とはまったく異なった思考が働きます。
教科書教材の授業が失敗したとき、教師は多くの場合、それを教材のせいにします。この教材は子どもたちに響かなかった、教材が悪いのだ、というわけです。自分もその教材をおもしろくないと感じているのですから、こうした思考に向かうのは人情かもしれません。ある意味、仕方のないこととさえ言えます。しかし、例えば自分の「敬愛する著名人」を扱えば、教材を否定するわけにはいきません。教材価値には絶対的な自信があるのです。とすれば、教師は失敗の要因を「授業の運び」に求めざるを得なくなります。導入のあり方は適切だったか、教材の提示の仕方はどうだったか、教材の説明は的確だったか、発問は機能していたか、話し合いのルールは徹底していたか、こうした授業を構成する諸々の要素の機能性について吟味せざるを得なくなります。
教科書教材を扱うにしても自主開発教材を扱うにしても、道徳の授業づくりではこうした構成要素のあり方を一度真剣に考え、吟味してみることが必要なのです。自分が人生の同伴者と感じている教材の授業をつくることは、教師自身が高いモチベーションを発揮できるだけにこうした要素への吟味を深いものにします。こうした経験の繰り返しだけが道徳授業づくりの力量を高めるのです。