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指導言の十箇条

1 発問と指示と説明

古くから教師の指導言の王道は〈発問〉だと言われてきました。素晴らしい発問をつくることが教材研究の王道であり、素晴らしい発問さえつくれば子どもたちは必然的に思考を始めるというわけです。従って、長く発問研究の本がたくさん出されてきましたし、著名な実践家の優れた発問もずいぶんと追試されてきました。

しかし、この発想は基本的に間違っていると私は思います。

言うまでもなく、教師の指導言には〈発問〉と〈指示〉と〈説明〉の三つがあります(『授業づくり上達法』『発問上達法』大西忠治・民衆社)。原則として、〈発問〉とは子どもの思考に働きかける指導言であり、〈指示〉とは子どもの行動に働きかける指導言であり、〈説明〉とは授業のフレームをつくる指導言です。つまり、〈説明〉は〈発問〉や〈指示〉の前提となる指導言であり、〈説明〉なくしては〈発問〉も〈指示〉もあり得ないのです。
 こう考えてみましょう。〈発問〉や〈指示〉のない授業は想像できますが、〈説明〉のない授業は想像できません。例えば、主語と述語の関係を説明することなしに、「この文の主語・述語は何ですか」という発問は成立しません。何をどのように書くのかという説明なしに「ノートに書きなさい」という指示も成立しません。授業において最も大切なのは、〈発問〉でも〈指示〉でもなく、〈説明〉なのです。

よく研究授業を参観したときに、教師の発問が子どもたちによく伝わらず、子どもたちが首をかしげることがあります。それを気づいた教師が何度も言い直しているのを見ることもあります。例えば、「どっちがふさわしいと思いますか」と発問したときに、その「どっち」の対象となっているAとBとが子どもたちに把握されていないために、授業に混乱を来しているというような場面です。

この場合、混乱の原因は「どっちがふさわしいと思いますか」という〈発問〉の文言にあるのではありません。そうではなく、この〈発問〉をする前段階の指導言、つまりこの〈発問〉の前提となっているAとBとを理解させる〈説明〉が不適切であったために、子どもたちに選択肢が理解されていないのが原因なのです。子どもたちが何を訊かれているのかわからないという表情をするとき、多くの場合、それは前提となっている事柄の共通理解が図られていないことに要因があるのです。教師がその前提を何度も言い直しているわけですね。

誤解を怖れずに言うなら、〈発問〉などというものは「なぜですか?」「どのようにしましたか」「だれですか」「いつですか」「どこですか」「何ですか」といった5W1Hが基本としてできるものに過ぎません。〈発問〉とは「問い」を「発する」ことですから、基本的には日本語の問い形を超えて成立することはないのです。せいぜい「どっちですか」「いつからいつまでですか」「どこからどこまで移動しましたか」といった、5W1Hの組み合わせのバリエーションがある程度です。

授業を混乱させないためには、まずは、その〈発問〉の前提となっている事柄がきちんと学級全体に共有化された状態をつくることが必要なのです。その「事柄の〈説明〉」が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈発問〉の成否、その〈発問〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

〈指示〉にも同様のことが言えます。「新学力観」から「ゆとり教育」への活動型授業の隆盛によって、国語科の授業おいても〈指示〉の重要性が意識されるようになりました。「三回読みなさい」「ノートに書きなさい」「指摘しなさい」といった従来型の〈指示〉に加えて、「話し合いなさい」「交流しなさい」「結論を一つにまとめなさい」「グループで調べなさい」「わかりやすく説明しなさい」など、小集団を使っての協同学習に取り組ませる〈指示〉が多くなっているのが近年の特徴といえます。しかし、こうした〈指示〉にも、まず例外なくその方法の説明、つまり「話し合い方」「交流の仕方」「調べ方」「説明の仕方」といったやり方が説明されているはずなのです。この「方法の〈説明〉」が不的確であった場合、その協同学習は混乱します。この「方法の〈説明〉」が的確になされたか、子どもたちに落ちているか、そこにこそ〈指示〉の成否、その〈指示〉が機能するか否かのポイントがあるのです。

私たち教師がまずもって身につけなければならないのは的確な〈説明〉の在り方です。短く明快に説明できることこそが、授業の成否にとって、子どもたちの学力形成にとって最も重要なポイントなのです。

2 ブリーフィング・マネジメント

例えば、ある授業において、次のような指導言があったとしましょう。

このとき、亜希子は「うれしい」とか「楽しい」とかいう「プラスの感情」を抱いたでしょうか、それとも「悲しい」とか「悔しい」とかいう「マイナスの感情」を抱いたでしょうか、これに対してみんなは両方あるって言うんだね。(子どもたちを見渡して)それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。「プラスの感情」と「マイナスの感情」では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。ノートに「プラス」か「マイナス」か、どちらかを書いて、その下に理由を「~だから」という形で一文で書きなさい。

この指導言において、〈発問〉は「『プラスの感情』と『マイナスの感情』では、どちらかというとどちらが大きいだろうか。」という一文だけです。また、「ノートに『プラス』か『マイナス』とどちらかを書いて、その下に理由を『~だから』という形で一文で書きなさい。」というのが〈指示〉に当たります。

しかし、この指導言を機能させているのは、決してこの〈発問〉と〈指示〉ではありません。これまでの授業内容をまとめて「プラス」と「マイナス」の両方があるのだという確認、そして「それじゃあ、もっと突っ込んで訊くよ。」という今後の進んでいく授業の見通しの確認、この二つこそがこの指導言の核心なのです。そしてこの二つは、言うまでもなく、授業のフレームを構築する機能をもっている指導言、即ち〈説明〉なのです。私たち教師は、自分が発している指導言の一つ一つについてこのように細かく分析する必要があるのではないでしょうか。

さて、指導言を考える上で、もう一つ注意しなければならないことがあります。それは指導言というものがコンテクストに支配されやすい側面をもっているという点です。

コンテクストとはテクスト外という意味ですが、ここでは指導言の文言以外の情報や空気と考えるとわかりやすいでしょう。つまり、その指導言が発せられる教室環境や、その指導言を発する教師と子どもたちとの人間関係の影響を受けやすい、ということです。

読者の皆さんにこういう経験はないでしょうか。四月に新しい学級を受け持ちます。前の学級でしたのと同じ説明をしているはずなのにいま一つ通じない、やたらと細かなことを質問される、それに応えているうちに時間が過ぎてしまう、前の学級よりもこの子たちは理解力が低いのかなあ……と悩んでしまう。こんな例です。

しかし、こうした現象が起こるのは、決して新しく受け持った子どもたちの理解力が低いからではないのです。前の学級の子どもたちはもう一年近くもあなたのものの言い方、考え方、指導言の在り方に慣れてしまっていたために、必要以上に説明しなくてもツーカーで理解してくれていたのです。少々厳しくいえば、あなたの授業はあなたの授業に慣れた子どもたちに甘えることによって成立していたのです。こうした現象を勘違いして、「今年の子どもたちはちょっとなあ……」と感じてしまう事例は殊の外多く見られます。

指導言はコンテクストに支配される。ぜひ心構えとしてもっておきたい原理です。

研究会で模擬授業や講座の登壇機会を多くもつ人たちはこの構造を熟知しています。だからだれにでも伝わる、わかりやすい指導言を発することができるのです。皆さんもたまには他学級で授業をしてみて、自分の指導言が通じるか否かを点検してみてはどうでしょうか。

私はこうした〈説明〉〈指示〉〈発問〉といった指導言の機能性を操作することを〈ブリーフィング・マネジメント〉と呼んでいます。〈ブリーフィング〉とは聞き慣れない言葉かと思いますが、ビジネス業界では「これから発生する事象について、事前に意識合わせをすること」という意味で頻繁に用いられる言葉です。この〈意識の共有化〉〈前提の共通理解〉をどのようにつくっていくかが、授業ではとても大切になります。これを意識しない授業、この意識の甘い授業は子どもたちの理解内容が方向性を失って浮遊してしまい、まず間違いなく「授業がにごる」という状態に陥ります。

冒頭でも触れましたが、〈説明〉〈指示〉〈発問〉は次のように捉えるとわかりやすいと思います。

【説明】 授業のフレームや、〈指示〉〈発問〉の前提をつくる指導言
【指示】 子どもたちの行動に働きかける指導言
【発問】 子どもたちの思考に働きかける指導言

つまり〈説明〉は、授業自体の〈フレーム〉を規定したり、〈発問〉や〈指示〉の前提となったりする重要な指導言なのであり、〈説明〉なくしては〈発問〉〈指示〉どころか、授業の〈フレームワーク〉自体が揺れてしまう、重要な〈ブリーフィング〉なのです。

3 指導言の十箇条

以下に、私の提唱している「指導言の十箇条」を紹介します。

(1)丁寧語を基本とする

必ずしも教師の指導言を丁寧語にすべきだと主張するつもりはありません。「~しなさい」「~なんだよ」という常体の指導言がしっくり来るという教師もいるでしょう。しかし、例えば、私が若い教師に指導言の在り方を訊かれたとしたら、やはり丁寧語を用いることを勧めます。

丁寧語でしゃべり出すと、人はたいていの場合、常体で話すよりも落ち着いたトーンで話し始めるものです。要するにゆっくりしゃべるようになるわけですね。それが子どもたちにとって聞きやすいスピードになることが多いのです。また、丁寧語は、個人に対して語りかけるのではなく、全体に対して語りかけているという印象を与えます。コンテクスト(教師と子どもとの日常的な関係性)に関係なく、パブリックな場という意識を醸成しやすいのです。更には、授業で丁寧語を使うことが日常会話と一線を画すので、日常会話によく見られる一文がやたら長いという状態に陥りにくくする、という利点もあります。

子どもの聞きやすさにも、自分の力量形成にも、私は丁寧語の指導言が良いと思います。

(2)ノイズを取り除く

「ええと…」「あのう…」といった無意味な感動詞的挿入言。「~ですね」「~でさあ」と繰り返される口癖となった終助詞。「はい!それではですね、はい、やってみますよ」「うん。そういうことなんだ。うん」など、子どもたちにというよりは自分に向けて言っている「はい」や「うん」。無くて七癖と言いますが、教師の指導言には実に多くの癖があるものです。これらがノイズとして耳障りな指導言にしています。

正直に言いますと、こうしたノイズに対して、多くの子どもたちは最初こそ気にしてはいるものの、一、二週間もすれば慣れてしまうものです。その意味では、授業の機能度にはそれほどの影響がないというのが現実です。しかし、だからと言って放っておいて良いというものでもないでしょう。保護者への授業公開や研究授業だってありますし、何より年度当初、子どもたちの出逢いにおいて子どもたちに「聞きづらい」という思いを抱かせているのですから。

一度、自分の指導言を録音してチェックしてみることをお勧めします。

(3)説明の命は「具体例」である

何かを説明しようとする場合、子どもたちにその説明を理解させるか否かの決定的な要素は、具体例があるか否かです。その意味で、教師は説明において常に具体例を用意しておく必要があります。しかも、複数の具体例、できれば三つ以上の具体例を用意しておくのが理想です。

具体例は、①実際に教室内で実演できる事例、②子どもの日常の生活経験を想起させる事例、③これをすればこうなるだろうと実感できるような同質の因果関係をもつ事例、④一見異なるもののように見える二つ以上の事象が同じ構造をもっているという事例、という四種類があり得ます。説明すべき内容がその場にある日常の学校生活上のものであれば①を、学校生活にはないけれど子どもたちの経験の中にあり得るものであれば②を、子どもたちが経験したことのない抽象的な事象の説明なら③や④を用います。

①なら一度見せれば事足りますが、②は必ず複数の事例を、③④はできるだけ多くの事例を取り上げて、念を押す必要があります。

(4)指示の命は「規模」である

指示には「教科書を18頁を開いてください」「鉛筆を置いてください」のような〈一義の指示〉と、「~はなぜでしょうか。『……だから』の形で一文で書いてください」「四人グループで話し合ってください。時間は8分です」のように、これから行う活動を促すような〈多義の指示〉とがあります。

子どもたちの集中を促したり授業に不可欠な準備をさせたりするための小さな〈作業指示〉ならば、いわゆる「一時一事の原理」に従って子どもたちの行動を細分化することになります。しかし、これからダイナミックな活動をさせようという〈学習活動指示〉の場合には、「『……だから』という一文で書いてください」「時間は8分です」のような〈規模の提示〉が不可欠になります。〈規模〉がわからないと、子どもたちはその活動の見通しをもつことができません。その見通しをもてないという状態が、子どもたちの意欲を減退させ、子どもたちの活動を散漫なものにさせてしまうのです。

(5)発問の命は「子どもたちの分化」である

「~って何ですか?」「~はいつですか」「~はどこですか」「~したのは誰ですか」等の発問はたいていの場合、一問一答になります。子どもたちにとっては、わかるかわからないかしかないからです。しかし、「~はなぜですか」「どのように~したのですか」という発問は、答えが分かれる可能性があります。それは子どもの認知・認識・イメージを問うているからです。

5W1Hにもこうした違いがあります。「何」「いつ」「どこ」「だれ」は、教師がずはり説明してしまってもそれほど影響のない発問です。「なぜ」「どのように」には問う価値があります。前者は確認のための発問ですが、後者は集団思考するための発問です。子どもからみれば、前者は指摘すれば事足りますが、後者は解釈を施さねばなりません。この解釈を表出させ、子どもたちが解釈の違いによる複数の立場に分化される、これが発問機能の第一義なのです。

授業は集団で行われます。集団で行われることが最も機能するのは違いが明らかになったときです。その違いを対比したり類比して精査していく、その入り口となるのが発問なのです。

(6)事象の説明の命は「見える化」である

子どもたちにある事象を具体例を用いて理解させようとする場合、その核心は〈見える化〉にあります。〈見える化〉には次のような四つがあります。

一つ目に具体物の提示です。そのものの実物を見せたり、起こる現象をその場で見せたりします。教室に実物を持ち込んだり、理科で実験を見せたりするわけです。また、テレビ画面に写真や絵を映したり、実際の映像を見せたりすることもこれにあたります。二つ目にモデル機能です。要するに教師が実演してやって見せるわけですね。良い態度や良い姿勢、良い話し方・聞き方など、動作や作用、状態や感情を示すのに適しています。三つ目に図示です。黒板やテレビ画面、スクリーンに絵を描いたり、構造を図示したり、わかりやすいように表にまとめたりします。

もう一つ、重要なのは描写です。現実には存在しない構成概念・抽象概念を教えるときには、「例えばかくかくしかじかのことがあったとき、きみならどうする?」と具体的な状況を描写しながら、あたかもその状況に自分がいるよう追体験させて心情を想像させる必要が出てきます。

(7)方法の説明の命は「見通し」である

例えば、四人グループでの話し合い方を説明するとしましょう。

まず、「このグループで説明しますよ」と言って、あるグループに近づきます。

「最初に、このAさんがかくかくしかじかと意見を言います。この間、だれも質問や反論はしません。その後、時計まわりにBさん、Cさん、Dさんと意見を言っていきます。四人が言い終わると、だいたいみんな『ああでもない、こうでもない』と話し合いたくなりますから、その意欲を発散して議論を始めてください。そして、四人でなんとか『こういうことなんじゃないか』という合意形成を図ってください。あとでグループごとに発表してもらいますから、だれが発表するかも決めます。これを8分で行います。」

このように、最初から最後までの動きを順次性を追って説明して見通しをもたせます。その後、「いいですか?まず全員が意見を言う、その後議論する、合意形成を図る、発表者を決める、という四段階です。時間は8分です」と念を押します。

(8)起こり得るミスを事前に伝える

ある程度の長さのある活動方法の説明をしたら、必ず「何か質問はありませんか?」と質問を取ります。たいていの場合、教師の説明がわかりやすければ質問は出ません。それが良い説明だったか否かの試金石になります。ただし、わかりやすい説明は、子どもたちに「なんとなくわかったような気」にさせてしまうというマイナス面もあるのです。教師はこういう細かな、小さなところにまで目を向け、配慮を重ねる必要があります。

こうしたときには、「前に同じようなことをしたときに、こういうミスがあったので気をつけてね」とか、「よくあるのが、~を~だと勘違いして、~しちゃったりする場合があるんだけど、大丈夫かな?」とかといった、〈起こり得るミス事例〉を事前に伝えてしまうと効果的です。

子どもたちは「ああ、オレだ~」とか「勘違いしてた~」とか言って、もう一度確かめようとするようになります。教師に多くの経験がないとできないタイプの指導言ですが、実はこうした本筋でない、挿入的な指導言が授業を機能させることが決して少なくないのです。

(9)指導言には「攻め」と「受け」がある

これまで指導言に関する八つの原則を述べてきました。しかし、これらはすべて、教師が指導案を進めていくための指導言の原則です。いわば〈攻めの指導言〉ですね。しかし、指導言には〈受けの指導言〉というものがあります。指導案上にある指導言ではなく、実際に子どもの反応を見たり聞いたりした後に、その応対として発せられる指導言のことです。

〈攻めの指導言〉は事前に準備することができるので、力量のない教師でもその指導言を発することができます。しかし、〈受けの指導言〉は子どもたちの反応を受けて、その場で臨機応変に教師が反応することを指します。従って、教師の人間性がストレートに出ますし、教師の力量があからさまに出る指導言です。

そして大切なのは、授業の構成をつくるのは〈攻めの指導言〉ですが、授業の雰囲気をつくるのも授業の機能度を上げるのも〈受けの指導言〉である、ということです。教師に研究とともに修養が必要だとされる所以の一つがここにあります。

(10)「間」も指導言である

子どもたちがざわついているときに、教師が黙っていることがあります。おしゃべりをやめない子に視線を合わせます。それに気づいた子からおしゃべりがおさまっていきます。だれもが経験したことのある教室風景です。
子どもが突飛な意見を言います。教師が目を丸くして沈黙します。目を丸くしたまま、たっぷり間をとった後に、ふと、「たまげたなあ!」と言います。教室が一気にはじけます。こんな教室風景も経験したことがあるのではないでしょうか。

教師が「いいかい?大事なことを言うよ……」と言って、にやりと笑います。子どもたちはひたすら先生の次の言葉を待っているわけですが、教師はにやりとしたまま、なかなか次の言葉を発しません。教室が緊迫した沈黙に包まれます。これもだれしも経験したことがあるでしょう。 言葉と言葉の間にある沈黙……、〈間〉もまた指導言であるということです。指導言の最高峰は〈間〉を的確、適切に操ることと言っても良いほどです。授業名人の多くは〈間の名人〉です。

四 授業の機能度

「指導言の十箇条」を紹介しました。しかし、これらの十箇条の一つ一つを独立して考えてはいけません。例えば、「子どもたちの意見がうまく分かれるような発問をつくれば良いのだ」とか、「子どもが見通しをもてるような説明さえすれば良いのだ」とか、一つ一つの指導言を別に別に考えてはいけないのです。

一時間の授業には「流れ」があります。Aを理解したうえでBを理解する、AとBの理解を前提とした上でCについて考えて意見を交換する、例えばこうした「流れ」ですね。授業の主役はあくまでこの「授業の流れ」「指導の流れ」「子どもたちの思考の流れ」であって、決して指導言が主役になることはありません。

あくまで「授業の流れ」を主軸に据えながら、その流れを機能させるにはどういった指導言が必要なのか、どの場面で見通しを持たせ、どの場面で的確な説明をし、どの場面で発問をして思考させるのか、その際どんな指示が必要になるのか、こういう順番で考える必要があります。 指導言の技術は、教師が子供をコントロールするために磨くのではありません。あくまでも子どもの理解を、子どもの活動を、子どもの思考を潤沢に機能させるために磨くのです。

「教育技術に使われる教師」になっていけない……。最後にこのことを強調して、私の提案とさせていただきます。

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