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放り出す

僕はじっくりみっちり関わった若者はキリのいいところで必ず放り出すことが必要だと思っています。力量形成には他人の力を借りずに自分の頭で考えるという長い長い時間が大切です。それを通らない成長は、実は成長したように見えても力がついていない、そう考えているからです。

僕は新卒さんを三年間指導したら、次の人事で必ず他の学年、要するに学年主任が僕ではない学年に所属するよう人事を画策することにしています。

「堀先生にいろいろ教えてもらった」
「堀先生と一緒にやればうまくいく」
大切な二十代にそんな感覚で仕事をすることは、長い目で見たら本人の教員人生にとってマイナスです。だから放り出すのです。

実は、これは多くの先輩教師ができないことです。ツーカーの若者はいつまでも自分の手元に置いておきたい。可愛がり続けたい。尊敬され続けたい。こいつがいれば自分の仕事が楽だ。やりやすくなる。いつまでも手放さないのは実は自分のためなのです。決してその若者のためなんかじゃない。私は強くそう感じています。

中学校には同じようなメンバーばかりで学年団を構成する傾向があります。三年生を卒業させた半分以上は同じメンバーで一学年団を構成する。そういう傾向です。校長になったら人事を画策して、かつて一緒に学年を組んでいたかつての若者たちを自分の学校に引っ張るという校長もよく目にします。自分がかわいがっていた、気心の知れた人たちを主任に当てて学校運営をしやすくするわけです。

気持ちはわからないでもありません。また、この現象が起こるのは学年主任や校長といったリーダー側の責任ばかりとも言えないでしょう。ついてこさせたい人がいる一方でついていきたい下の者がいることも確かです。上が守って上げたいように、下も守られながら取り立て、引き立ててもらいたい。日本人にはそういう人が多いことも確かです。しかしこうしたメンタリティがはびこっているから「御恩奉公」の関係が拡大再生産されていくのです。

「御恩奉公」の人間関係は、どうしても閉じられていきます。身内のやり方を踏襲し、身内のやり方を絶対善とする傾向がどうしても強くなります。新しいアイディアを採用するにしても、せいぜい身内で小さなアイディアを出し、身内でそのアイディアを採用する程度になってしまいます。構成メンバーも他に学びの場をもっていない場合が多いので、常に前年度踏襲。前年度踏襲ならまだ良い方で、一年生をもてば三年前に同じメンバーで一年生をもったやり方とほぼ同じ。二年生をもてば三年前の二年生と同じ、三年生をもてば三年前の三年生とやはり同じです。次第に仕事の仕方が硬直化していきます。しかも、それぞれの構成メンバーがもつ学年分掌まで毎年同じになりやすいですから、その硬直度合いは年を経るごとに高まっていきます。これが中学校の職員室が「学年セクト化」しやすい一番の原因です。

三年間(或いは二年間)一緒に学年を持ち上がり、自分が育てたと自負するような若者は、かえって外に出した方がいい。放り出した方がいい。僕はそう述べました。同じ学校にいれば、年度当初は新しい学年団のやり方に馴染めず、よく愚痴を聞かされたり相談を受けたりということになりがちです。しかし、その場合にも僕は「愚痴を言ってる暇があったら、取り敢えずそのやり方にあわせて勉強してみたらどうだい? 俺のやり方だけが唯一絶対に正しいわけじゃない。そしてその新しいやり方でどうしてもうまくいかない部分があるということがあれば、ちゃんと進言して改革すればいいんだよ」と言うことにしています。そうした愚痴や相談に親身になってかかわっては、その若者はいつまでも前年度の幻想に取り憑かれたままになります。

前年度までに経験したことと今年度経験していることとをミックスする、これまでのやり方の良さといま現在のやり方の良さとを融合してみる。それができたときに初めてその若者は自立できるようになるのです。時間が経てば、「堀先生のやり方のここのところは改善の余地があると感じるようになりました」なんてことを言い出すようになるかもしれません。そしてそこまでいけば、その若者はもう「自分が育てた若者」などではなく、対等に付き合え、対等に学び合える「実践仲間」「研究仲間」になるのではないか。そしてそうした関係こそが「同僚」の名に値するのではないか。僕はそう考えています。いつまでも一緒に仕事をして引っ張り回している、「御恩奉公」の関係に閉じられている、それは「同僚」ではありません。「子分」です。

先に僕が初めて学年初任をしたときに出会った若者たち、高村克憲先生と齋藤大先生を紹介しました。僕は彼らも四年で放り出しました。彼らももちろん、その後転勤して、新たな学年主任の下で仕事をしたり自らが学年主任になったりしました。そしていまでは、また再び一緒に仕事をしているのです。同じ学校でではなく、同じ研究サークルで。

あれから十年が経ち、彼らが確かに僕が教えたことを基礎としながらも、僕から離れてから学んだことをそれとしっかりと融合して得た学校教育の在り方。それを僕もまた彼らから学んでいるわけです。かつて自分の育てた若者が大きく成長し、時が経っていまは自分に学ばせてくれる。先輩冥利に尽きるとはこのことではありませんか。

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