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直接と間接

平成の野球界の大スターにイチローがいます。令和の大スターには大谷翔平がいます。ともに道徳授業の実践が数多く報告されています。私は正直、イチローや大谷の授業を見たり実践報告を読んだりしていて、「うん、これはいい、自分もやりたい」と感じたことが一度もありません。なぜだろうと考えてみるのですが、長らくその答えを得られませんでした。しかし、最近ようやく自分の違和感のもとが理解できるようになってきました。イチローや大谷は、子どもたちの現実から遠すぎるのです。それが私に「この道徳授業は機能しない。役に立たない」と思わせていたのでした。

イチローや大谷の功績は偉大なものです。これは反論の余地がありません。私もプロ野球ファンの一人として、この二人に対しては尊敬の念を惜しみません。功績が偉大であるだけでなく、報道を読んだり本人のインタビューやエッセイなどを読むと、その努力たるやひれ伏すほどのすさまじさです。しかしそのことは、実は彼らの努力や功績が、決して常人の及ぶところではないということをも示しているのです。

子どもたちにイチローや大谷を教材化して授業をする。そのとき、子どもたちは「うん、僕もイチローや大谷のように努力して大きな功績を上げよう」と思えるのでしょうか。もちろん、小学校低・中学年くらいならそういうこともあるかもしれません。しかし、自分の中にあるエゴイズムやコンプレックスを意識し始めている高学年・中学生から見ると、「そんなの無理だよ」と感じてしまうのが現実なのではないでしょうか。あなたはイチローや大谷の努力と功績を見て、自分が彼らのようなすさまじい努力をして彼らのような偉大な功績を残せる可能性を想定することができるでしょうか。そもそも、「努力できること」自体が一つの才能なのではないでしょうか。それが現実なのではないでしょうか。

例えば、高校時代でもプロに入ってからでも、イチローや大谷の陰で彼らに嫉妬しながら自らの人生を狂わせてしまったという人がいたら、私はその人物をこそ教材化したいと思うのです。例えば、彼らのチームメイトで日陰に甘んじながら、それでも前向きに頑張り続けたという人がいたら、私はその人物こそを教材化したいのです。そうした人たちが経験した葛藤は、間違いなく目の前の子どもたちの中にも存在するものです。少なくともイチロー自身、大谷翔平自身のようには子どもたちから遠くない。

ご承知のように、道徳の授業は偉大な人物を直接的に扱うことが多いわけですが、私は偉大な人物はその人物を直接的に扱うよりも周りの人物の葛藤をこそ扱うべきだと考えています。要するに、偉大な人物は直接的に扱うのではなく間接的に扱うきだと考えているわけです。これが私の言う「間接性の原理」です。

例えば、松井秀喜は石川県星陵高校時代、甲子園で五打席連続で敬遠され、その試合で活躍することなく敗退しています。それほどに偉大な選手であったという逸話として流布しているわけですが、五打席連続で敬遠されたからには五打席連続で敬遠した側がいるわけです。当時、高知県明徳義塾高校で投手兼外野手だった河野和洋氏です。氏は試合後、甲子園の五万五千人の観衆から大ブーイングを浴びます。十八歳の少年が全国から大ブーイングを浴びたわけです。氏は当時の心境を後にこのように語っています。

「ブーイングという言葉をあの試合で初めて知りました。ただ、敬遠は馬淵(史郎)監督が勝つためにやった作戦で、私たちは指示に従った。ルール内ですから別に恥じることはないと思っています。当時は五万五○○○人を敵に回すより、サインを無視して監督を敵に回す方が怖かったですからね(苦笑)」    〈「NEWSポストセブン」小学館・2015,.08.09〉

インターネット上に記事がまだ残っているので詳しくはそちらを御覧いただきたいのですが、私はこの河野和洋氏の葛藤の方が松井秀喜自身よりもずっと子どもたちの心に響くものがある、教材化する価値があると思うのです。

道徳授業では杉原千畝もよく教材化されますが、ナチスに迫害され逃れてきた難民の窮状に同情し、自らの危険も顧みずに命を犯す人物の功績を、子どもたちは身近に感じることができるのでしょうか。そもそも千畝の功績を学んだとして、子どもたちはその葛藤と勇気ある判断をどういった場面で活かすことができるのでしょう。こうしたことが私にはとても疑問なのです。千畝の帰国後、その判断を家族がどう感じたかという家族の手記ならば、私も扱う価値があると感じます。しかし千畝自身の功績は、子どもたちにモデルとして生きろと言うには特異すぎるのです。

「間接性の原理」は、なにも偉大な功績を挙げた人物ばかりに適用されるわけではありません。私はよく、道徳授業で障がい者を扱います。しかし私の障がい者の授業のほとんどは、障がい者自身を直接的に扱うものではありません。障がい者自身がどんなに頑張っていたとしても、それは子どもたちから見れば遠いと言わざるを得ません。そうではなく、その頑張った障がい者を快く見守った人物、或いはその障がい者の家族の温かくも葛藤ある心情、そういったものを教材化します。私は犯罪者もよく扱いますが、子どもたちに考えさせるのはその犯罪者自身ではなく、むしろその家族の葛藤です。また、犯罪者には子ども時代にいじめに遭っていたという体験をもつ者が多いですから、その頃のクラスメイトはなぜいじめたのか、彼らに法的な責任はないにしても道義的な責任はないのか、といったことを扱うことにしています。

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