「前」からではなく、「後ろ」からつくる
子どもたちの興味を惹きつけられるようなおもしろい導入を思いついた。うん、これは行ける。授業づくりの手応えを感じる。子どもたちも深く考えてくれるに違いない。もしかしたらこの授業に深く感じ入ってくれるかもしれない。授業づくりへの意欲が湧いてくる。構想が、活動が、指導言が、次々に湧いてくる。ところが、導入で子どもたちを惹きつけ展開で活発化する活動を立案できたというのに、その先が進まない。終末が決まらない。いや、このまま行けばそれにふさわしい終末はなんとなくわかる。でも何とも言いようのない違和感がある。無理強いしなくてはならなかったり、きれいごとを言ってまとめなくてはならなかったり、あんなに深く考えたのに言葉にすると月並みなありきたりの言葉にならざるを得なかったり……。いやいや、これじゃいけない。自分がやりたかった授業はこんなまとめではいけない。何かいい終末案はないだろうか。ここでぱたりと授業構想が止まってしまう。
こんな経験を誰もがもっているのではないでしょうか。
実は授業を導入からつくって終末で戸惑うということは、その授業の核心が見えないままにつくり始めることを意味しています。どのような授業でも、授業の核心は間違いなく授業展開の後半から終末にかけてにありますから、その段階での立案に戸惑うということ、或いは導入・展開との整合性に違和感を抱くということは、導入・展開と終末とが不整合を起こしているということです。終末が決まらないというのは、何のことはない、授業の最初と最後とが齟齬を来しているわけです。
最初におもしろい導入を思いつく。それは確かに悪いことではありません。思いつかないよりもはるかにいい。しかし、その導入はその導入の活動がおもしろいというだけで、実はその導入活動が「おもしろい活動として完結したもの」を思いついたということに過ぎないのです。その授業で扱おうとしている本質から生み出された導入ではないのです。ですからその導入に合致した展開前半までは流れるものの、終末に連動させなければならない段階になったところで齟齬を来し、違和感が生まれるのです。この戸惑いにはそうした構造があります。
こういうつくり方をすると、多くの場合、結局は終末を教師の説話で終わらせるということになります。教師が語るのであれば、導入から展開への活動のポイントを拾いながら、なんとか一時間の整合性を担保することができます。しかしそれは多くの場合、「説話」と言えば聞こえが良いですが、本質的には「説教」に過ぎないものになりがちです。本来は子どもたち自身が話し合いの中で、或いは絵本の読み聞かせやビデオの視聴といった中心活動(終末活動、或いは展開部後半の活動)の中で自ら思考していく、自ら気づいていくというのが理想であるはずです。
これを避けるには、実はそれほど難しくないポイントがあります。授業を「前」からつくるのではなく、「後ろ」からつくるのです。要するに終末からつくるわけです。「この教材では最後に何をすれば授業が成立したと言えるのか」「この教材では子ともたちが何を感じたり何について深く思考したりすれば目標が達成できたと言えるのか」を最初に考えるわけです。それは取りも直さず、授業を核心からつくることを意味しています。「授業を〈後ろ〉からつくる」ということは、「授業を〈核心〉からつくる」ということと同義なのです。
「授業の中心活動」を最初につくる。それは「授業の山場」を最初につくるということです。すると、それ以前の学習活動はすべて、「中心活動」に至るための「授業のフレームづくり」ということになります。そしてそれは言い換えるなら、「授業の山場」に至るための「布石」を打つことなのだと言えます。私は授業というものを、例えば良質な演劇や漫才のように、プロローグからさまざまな布石を打ち、エピローグでそれらのすべてを回収する営みだと捉えています。
例えば、授業の中心活動が「話し合い活動」であるならば、授業のフレームづくりとしてはその話し合いで論点となるべきポイントや話し合うための観点が布石として提示されていなければなりません。こうした論点や観点が事前に提示されているからこそ子どもたちはスムーズに話し合いに入れるのであり、それらが提示されているからこそ交流によって深い思考にも至ることができるのです。自らの経験と知見だけで大きな、しかもこれまで考えたこともないような課題に正対しながら話し合うなどということは、実は大人でもできるものではありません。
例えば、授業の中心活動が絵本の読み聞かせやビデオ視聴といった、いわば「昇華型の活動」であるとすれば、その絵本に触れたり映像を見たりするうえで思考したり感受したりすべき視点や観点が布石として与えられていなければなりません。事前に授業のフレームとして視点・観点が与えられているからこそ、子どもたちはその昇華教材に深く思考したり感じ入ったりすることができるのです。
私はこれを「授業フレームは中心活動に収斂する」という言い方をしています。とかく「収斂」と言うと、子どもたちの意見を教師の意図どおりに一つにまとめていくことが想定されがちですが、授業のフレームづくりによる布石の打ち方によって、子どもたちの視点・視座を中心活動に収斂させていくという「機能的収斂」もあるのです。