発問・指示・説明
皆さんは自分の指示や説明が子どもたちにちゃんと伝わっていなくて、子どもたちが混乱してしまったという経験がないでしょうか。或いは、子どもたちが楽しそうに交流しているのをにこにこしながら見ていたのに、途中から子どもたちがヘンな方向に走り出してしまい、よくよく聞いてみると自分の指示・説明を子どもたちが勘違いしていたことがわかった、そんな経験をしたことがないでしょうか。
どちらの場合も、結論としては教師の指導言が悪かったという話になるわけですが、AL授業では、こうしたミスや勘違いが一斉授業に比べて致命的なことになってしまうことが少なくありません。一斉授業ならばこういうことに気づいたとき、すぐに説明し直したりやり直したりすることで対応できますが、AL授業では既に子どもたちが交流に入っています。要するに「子どもたちに任せる時間」に入っているわけです。交流が始まってすぐに気づいたという場合なら別ですが、ある程度交流が始まってから気づいた場合には既に取り返しのつかない時間が経過していることになります。予定の学習が授業時間では終わらないということにもなりがちです。また、子どもたちにしてみれば、せっかく任されて始まった交流・議論が無駄だったということになってしまい、「おいおい、最初からちゃんと言ってくれよ」ということになります。成績上位の子、AL授業を好きだったり得意としていたりという子ほどその傾向が強くなります。授業構成上の問題から見ても、子どもたちの意欲喚起の面から見てもマイナスが大きいわけです。
私は〈説明〉〈指示〉〈発問〉といった指導言の機能性を操作することを〈ブリーフィング・マネジメント〉と呼んでいます。〈ブリーフィング〉とは「これから発生する事象について、事前に意識合わせをすること」を指しますが、この〈意識の共有化〉〈前提の共通理解〉をどのようにつくっていくかが、一斉授業・AL授業を問わず授業ではとても大切なことです。これを意識しない授業、この意識の甘い授業はまず間違いなく、「授業がにごる」という状態に陥ります。
〈説明〉〈指示〉〈発問〉は次のように捉えるとわかりやすいと考えています。
【説明】授業のフレームや、〈指示〉〈発問〉の前提をつくる指導言
【指示】子どもたちの行動に働きかける指導言
【発問】子どもたちの思考に働きかける指導言
長く授業づくりの核は「発問研究」だと言われてきました。子どもたちが深く思考するような良い〈発問〉さえ創り出せれば授業は必然的に機能する、その他は枝葉に過ぎない、というわけです。しかし、大西忠治が一般に〈発問〉と呼ばれるものは実は〈説明〉と〈指示〉と〈発問〉とに分かれるのであり、一般的に〈発問〉と呼ばれるものは〈指導言〉と呼ぶべきだと提案しました。しかも、三つの指導言の要素のうち、最も大切なのは〈発問〉ではなく〈説明〉であると喝破しました。一九八○年代後半のことです(『発問上達法』大西忠治・民衆社・一九八八年四月)。
なるほど〈発問〉のない授業はあり得ますが、〈説明〉や〈指示〉のない授業は考えられません。たとえ授業の中心が「問い」や「課題」であったとしても、その「問い」や「課題」を子どもたちに理解させるにはその意味を「説明する」ことが必要です。また、〈発問〉し、いよいよ子どもたちに思考させる、活動させるという段になったとき、どのように考え、その考えをどのように表出するのか、どのように活動し、その後どうするのかといった〈説明〉が必ず必要になります。私はこの大西忠治言が教育界の革命的な大発見であり、世紀の大発見であったと捉えています。
しかもこの原理は、時代に求められる授業形態が一斉授業からAL授業に移行するとともにその重要度を増してきています。AL授業では一斉授業以上に、〈説明〉が授業自体の〈フレーム〉を規定したり、〈発問〉や〈指示〉の前提となったりする指導言になり、〈説明〉なくしては〈発問〉〈指示〉どころか、授業の〈フレームワーク〉自体が揺れてしまう、重要な〈ブリーフィング〉になっているのです。
「なにか質問はありますか?」
「じゃあ、ここまでは確認しますよ」
「取り敢えず今日はこれについてはこう考えることにして進んでいきましょう」
こうした〈ブリーフィング〉を抜きにして授業は成立しません。一斉授業でもこうした確認(=〈意識の共有化〉〈前提の共通理解〉)が重要と言われているわけですから、子どもたちに多くの時間を預けてしまうA型授業、子どもたちに多くの時間を任せてしまうAL授業ではその重要性が格段に増すのは考えてみるとあたりまえのことです。
自分の指導言は子どもたちに一度でストンと落ちるほどに明快か。自分の指導言に複数の解釈が生まれる可能性がないか。次の交流を進めるにあたって前提として共有化しなければならない条件は何か。それを全体の場でしっかりと確認しているか。前提条件を曖昧なままに思考し交流しようとしている子がいないか。要するに「自分の指導言がどのように機能しているのか」について、AL型授業は一斉授業以上に大きな配慮が必要となるということを教師は大きく意識しなくてはならないのです。