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<エッセイ> 音の日常

左耳の調子が悪い。そしてそれは今始まったことではない。もうかれこれ十年以上前から頭の左側で耳鳴りがするようになり、ジェットエンジンの音のかなり周波数の高い部分を、そのまま切り取って鼓膜に貼り付けたようなキーンという音が、24時間365日鳴り続いている。一時期はそれでノイローゼになるのではないかと案じもしたが、今ではすっかり慣れた。気にしないでいれば気にならないのである。要は気にしない訓練をすれば良いのだ。だが確かにそれは寝ても覚めてもしつこく鳴り続けている。

原因はわからない。若いころからイヤホンやヘッドホンをつけて音楽を聴いたり、アマチュア無線の電信の音に集中して耳を傾けていたりしたせいなのかもしれないし、動脈硬化や、ストレスが起因している可能性が考えられなくもないが、耳鼻科で相談しても、ただ「老化ですね」と言われて終わりである。

耳鳴りには様々あるが、どうやら私のには治療法がないらしい。実際、東京在住の友人に同じ症状の者が一人いるが、彼も同じようなことを言っていた。

耳鳴りと共に聴覚も落ちてきているのを実感する。英語を身すぎ世すぎとして携えて来た者として、これは致命的なことだ。日本語と違い、英語の言葉のほとんどは有声音ではなく、舌や唇の摩擦音から成る静かな子音で終わるから、相手のそれが己の鼓膜に届かず、いや、届いていたとしても鼓膜がそれに感応せずに、その単語を聞き返す事がたびたび起こる。あと数年もすれば補聴器が必要になるかもしれないと覚悟してはいるものの、ほとほと情けない気持ちになったりもする。

しかしこの耳の不調で、今まで全く気が付かなかった事に、はじめて思いなすようになった。どうも私の左耳の鼓膜は、音の幅の一定の周波数に対してビリビリと共振するらしいのである。

娘が中学三年生だった時、彼女らの最後の体育祭があり、弁当を持って観に行った。毎年一緒に観戦している娘の親友の家族が、朝早くから場所取りをして地面に敷いてくれたビニールシートは、グラウンドの管理棟の前だった。そこはちょうど徒競争のゴール地点の傍でもあり、観戦にはもってこいの場所なのだが、管理棟の壁面には大きな拡声器が三つしつらえてあり、そこから体育祭の間じゅうずっと軽快な音楽が流れていた。それがとてつもない大音量なのである。そしてどの曲でもメロディーがある一定の音域に達すると、左耳の鼓膜がビリビリと震え、いったい何を歌っているのか聞き取れないのだ。家で音楽を聴いている時には決して起こらなかった初めての現象に、私は悄然としたのだった。

耳が痛くて堪らず、その場を逃げ出したい衝迫を『娘の、ひいては我家にとっては最後の運動会なのだから』と必死で抑え、ひたすら両手で耳を覆って凌いだ。

思えば子供三人の小学校・中学校の運動会では、すべからく会場の拡声器からは結構な音量でBGMが流れていたのを思い出す。

『何故だろう?』と砂ぼこり舞う初夏の空の下で考えた。
 
運動会のみならず、商工会の祭典や、ほかのイベント会場でも必ずBGMが流れている。また、帯広市の中心部では商店会の宣伝が有線放送で流され、ほぼ一日中、同じ内容の広告宣伝が繰り返される。
 
帯広のFデパートから道路を挟んだビルの九階に、以前勤務していた英会話スクールがあった。赴任してきたイギリス人講師が私に「どうして帯広の町はこんなに煩いのだ。この街頭放送は何とかならないものか」とこぼした。その時は思いも及ばなかったが、今になって考えると、過去に訪ねたヨーロッパやアメリカのどの町にもあのような街頭放送は存在しない。道を歩いて聞こえてくるのは人々が石畳を歩く靴音、車の音、そして障がい者に向けられた交通信号の切り替わりを示す「ピッピッ」という電子音くらいだ。

街路樹の多いイギリスの街中では、小鳥の声が耳に優しい。特に印象深かったのはイギリスの一大観光地、コッツウォルズ地方にあるバートン・オン・ザ・ウォーターという町で昼食をとった時、大勢の観光客が歩いているものの、聞こえてくるのは市内を流れるせせらぎの音と、人々の楽し気な会話、川岸で水遊びをする子供たちのはしゃぎ声だけであった。
 
ひるがえって日本では、街頭放送だけではなく、どうして人が集まる場所に必ず音楽を流すのだろう。そんな疑問が頭をもたげる。自分でラジオ番組やCDを選んで聴くのとは違い、主催者側が勝手に選んだものを無理やり大きな音量で聞かされるのは、ひょっとして暴力なのではないか? そんな詮ない思いが頭をもたげるのだ。

『BGMはどうしても必要なものなのか』

そんな純粋な疑問が芽生えると不思議なことをいろいろと考える。例えば、家人は朝起きてくると必ずテレビのスイッチを入れる。本人達はそれぞれ洗顔・身支度に余念がなく、テレビ画面を見ているわけではないのに、それまで静かだった茶の間がテレビの音で溢れかえる。それはまるで、朝、テレビの音がしないと一日が始まらないとでも思っているかのようだ。極端な例ではあろうが、家にいる時は必ずテレビをつけておくと言った友人がいた。何かしらそうした音がないと寂しいからだという。

BGMの一切ないイベント会場はどうなのだろう。皆寂しいのだろうか。シラケるのだろうか。公園など、野外で行われるイベントで、音楽ではなく、木々を渡る風の音や小鳥の声が聞こえているだけではもの足りないのだろうか。
 
左耳の不調によって芽生えた思いがない常住意識は、日本の選挙システムにまで疑問が及ぶ。あの選挙カーの騒音である。中学校の体育祭の拡声器など問題にならぬくらいの超大音量で町の辻々を駆け抜ける選挙カーの光景は、実はここ日本でしか見られない。あれこそ暴力以外の何物でもないような気がしてくる。日本人は誰もがそれに慣れてしまっており、数年に一度の事だからと許容しているのだろうか。病の床にある人々や乳児、私のように耳に不具合がある者にとっては堪らない事である。

来春、全国統一地方選挙がある。きっとこの左耳は、また痛い目に遭うのだろう。そしてつくづく日本は騒音に満ちている国なのだと感じる。だがそれは、ちょっとばかり外国の街々を訪れた者の上滑りな思いなのだろうか。それとも私は耳の老化と共に、物事に対する許容力まで衰えてきてしまっているのだろうか。

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