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<短編小説> ゲッセマネ

柳井貢が飼っていた二匹の猫、クシロとメグロを他の猫と一緒に大きな籠に入れ、川に沈めて流したのは高校一年生の佐々木正巳だった。

四十年ほど前、私が中学二年生の秋の出来事だ。人には生きている間にどうしようもなく瞼に焼き付いて離れない光景や思い出がひとつやふたつはあると思うが、あの時の貢の苦しくそして悲しみに歪んだ顔を、私はずっと忘れることができずに今まで生きてきた。

私と貢の家は共に乳牛を三十頭ほど飼育する酪農家で、佐々木正巳の家はその頃すでに百五十頭余の牛を飼う、村では一番大きな酪農家だった。

北海道川北郡澤別町美沢。

私が生まれ育ったその山間の農村は、大正時代から昭和の初期にかけて入植者が入っては来たが、北海道の中でも冬の寒さが特段に厳しく、土地もそれほど肥沃とはいえないために、三十五戸の内の大半が牛飼いか、家畜を売り買いする馬喰、または営林署の下請けの林業を生業としており、一部の者は車で十五分ほどの澤別町にある大きな木材工場で働いていた。

貢の家は私の家から二百mほど離れた所にある柏の大木の傍に佇む古い平屋で、屋根や壁はもう相当に傷んでおり、窓からは隙間風が入るので、冬の間はいつも窓枠をすっぽりと透明のビニールで覆っていた。冷たい北西風が吹きすさぶ十一月になると、私は毎年彼の家の窓のビニール貼りをする貢を手伝ったものだ。 

貢の母親は、彼が十歳の時に他界した。子宮にできた癌が転移して、地元の農協が行う年に一度の定期健診でそれが発覚した時には、もう手遅れの状態だったのである。

田舎の農村では珍しく、貢の家族はクリスチャンだった。そんな貢の家で行われた母親の葬儀は、峠の向こう、車で一時間ほどのK市からキリスト教会の牧師が来てしめやかに執り行われた。

古い家の中で行われたその葬儀では、料理も酒も出ず、ただ村人が集まって座り、牧師の話を聞いて、牧師と遺族二人だけで棺を町の火葬場に持って行きそれで終了した。葬儀の途中で三度、讃美歌を歌ってくださいと、牧師が村人に小さな歌集を渡して促したが、そんな歌を知っているのは貢と彼の父だけで、家の中には彼らと牧師の三人の歌声だけが響いたのだった。

「なんだかようわからんな、キリスト教ってのは。こんな葬式でいいのかね」

狭い玄関から出た皆がそれぞれ帰途に就こうとしている時に、正巳の父で、澤別町の町議会議員でもある佐々木正蔵が誰に向かってでもなく呟いたのを私は聞き逃さなかった。

 二匹の猫、クシロとメグロは、貢の家の牛舎にいつの日からか住み着いたオスとメスの猫で、名付け親は貢だった。クシロは体全体が黒と白のブチだからクシロ。メグロは片方の目の周りだけが黒い白猫だからメグロと、今思い返せばなんとも安直な名前の付け方ではあったが、それでも貢は自分の部屋でその二匹に温かい寝床を作ってあげ、ちゃんと毎日餌を与えて可愛がっていた。
「寒くなると、こいつら僕の布団に入ってくるのさ。ぐるるるるー、ぐるるるるーって喉を鳴らしてさ。めんこいんだわあ」
貢が嬉しそうに言った。

彼の部屋は六畳間で、茶の間とは引き戸で仕切られており、窓側に簡素な机が置いてあり、反対側の壁に木で作られたベッドがあった。一番目についたのは、ベッドの枕元の壁に飾られた一枚の絵だった。そこには長髪で髭の生えた外国人男性が岩にもたれかかり、身体の前方で手を組み、斜め上を悲しそうな表情で見上げているもので、その男の目は何とも苦しく、そして悲しげで、何かを懇願するように天を仰いでいた。
「イエスキリストだよ」
その絵を見つめる私に向かって貢が静かに言った。
「イエスキリスト? 貢の家の神様だったっけ?」
「そう。これはゲッセマネの園でキリストが祈っている姿なんだ」
「ゲッセマネ?」
「うん、まあ、オリーブ畑の名前なんだけどね」
「ふうん…。で、なんでこのキリストはこんなに悲しそうな顔をしているんだ?」
「これはね、皇帝ネロの一味に捕まる前に、弟子たちがみんな逃げてしまってキリスト一人だけになってしまったのさ。それでもキリストはその弟子たちとこれからの世界のために祈っている。そんな絵なんだよ」
「へえ…」
それ以上その絵についての会話を続けたかどうかも覚えてはいないが、私はなぜ貢がその絵をベッドの枕もとに飾っているのかを聞きそびれたのだった。

 貢のクシロとメグロが帰ってこなくなって三日。方々探し回った貢と私の耳に、隣の牧場の長男、佐々木正巳が三日前に牛舎に出入りしていた猫をまとめて大きなかごに詰め込み、それを牧場の裏手を流れる澤別川に流したらしいとの話が飛び込んできた。
「俺の猫、見なかった?」と青い顔で尋ねる貢を見下ろし、高校生の正巳はにべもなかった。
「お前の猫かどうかなんてわからん。バルククーラーの周りをウロチョロしている猫たちを全部処分しただけだ。変なバイ菌が牛乳に入っちゃたまらんからな」
それを聞いた時、私は言い知れぬ怒りがこみ上げ、二歳年上の正巳に向かって怒鳴ったのだった。
「何だよ! その言い方!」
正巳は一瞬驚いたように私を見たが、すぐに形相を変え、「何だ、貴様!」と言って私の胸ぐらをつかんだ。二、三秒間の揉みあいになったが、「いいよ。やめよう」と貢が二人の間に分け入って来た。

私は悔しくて仕方がなかった。しかし私より悔しくて悲しいのは貢の方だった。帰り道、私の後ろを歩く貢の目が涙で溢れていた。彼は歯を食いしばりながら呻き、時折手で涙を拭い、鼻をすすって溜息をついては空を見上げた。彼の華奢な身体がいつも以上に小さく痩せて見えた。本当に辛そうなその表情は、貢の部屋に飾ってあったあのキリストの顔にも似ていた。

 私と貢それぞれが澤別高校の三年、そして一年の時に、貢の家の酪農業が立ち行かなくなった。日米の貿易摩擦で、北米から輸入される配合飼料が高騰していたにも拘わらず、政府の政策で乳価が据え置かれ、酪農家の多くが苦しい経営を余儀なくされていた。特に貢の家は牛の乳房炎が頻発し、搾乳できる頭数が極端に減った。乳房炎の対策にもかなりの費用がかかり、もうにっちもさっちも行かなくなった時に、佐々木正巳の父親、正蔵が貢の家の牛をすべて引き取り、農場ごと吸収する案を持ち掛けた。

「悪いことは言わん。これ以上借金を抱えるよりは牧場を畳んでうちに来い。ちゃんと暮らせるだけの給料も出すし、時価できちんと土地も買い取るから」

佐々木正蔵の提案に、貢の父親、隆志さんは涙を呑んで昭和初期から続いていた牧場を手放すことに同意した。

乳房炎に感染した十二頭の牛は淘汰され、残り十八頭と貢の家の牛舎やサイロ、そして十五丁歩の牧草地や畑などはそれ以降佐々木牧場のものとなった。隆志さんは佐々木牧場の従業員となり、貢は高校を卒業してからは進学せず、父親と同じ牧場のスタッフとなった。

事故が起こったのは私が札幌の大学で三年生の時だった。
「貢君が事故で死んじまった」
私の父から下宿に電話が入った時のことを私は忘れられない。佐々木牧場はその後も周囲の農家を吸収し、四百頭を飼育する大きな農家になっていた。貢は佐々木牧場が新しく牧草畑に転用した山際の斜面で草刈り機をトラクターの後部につけて作業をしていた。

トラクターの運転が従業員の中でも一番上手いと言われた貢でさえ、急斜面で油断し、操作を誤ってしまったのだった。トラクターが横転し作業機もろとも回転して斜面を転がったのだという。華奢な貢の体はひとたまりもなかった。大学に進学してからは年に一度ほどしか逢ってはいなかったが、貢は私にとっての幼馴染でもあり、親友だった。

彼の葬儀はやはりあの柏の樹の傍の古い家の中で行われた。喪主の隆志さんとK市から来た教会の牧師、そして沈痛な面持ちの佐々木正蔵と息子の正巳を私は久しぶりに見た。

葬儀の合間、開け放たれた引き戸の向こうの貢の部屋のベッド、その枕もとの壁に、昔見たゲッセマネのキリストの絵がそのまま飾られているのを私は見逃さなかった。

そのキリストの表情は、まるで世の中すべての不条理に対し、言い知れぬ怒りと悲しみを覚えながらも、それをぶつける場所もなく、あえて自分に帰結するものとして呑み込み、何かを神に懇願しているような表情だった。

貢の遺族として、幾ばくかの労災保険と佐々木牧場が従業員に掛けていた傷害保険金を受け取り、父親の隆志さんは佐々木牧場を辞め、峠の向こうのK市に引っ越して行った。あの柏の樹の傍の家はそのまま主のいない廃屋として農道の脇に残っていた。

「お前は俺の後を継がなくてもいい。俺の代でこの牧場は終わりにする」と言っていた私の父も、貢の死の五年後に自らの牧場を佐々木家に譲った。その後父は母と共に札幌に移り、年金生活を続けている。私の生家はすぐに取り壊され、更地になった。

 令和四年。五十五歳になった私は三十年ぶりに澤別町美沢を訪ねた。佐々木牧場はその後も事業を拡げ、乳牛二千頭余を抱えるメガファームに成長していた。法人名も社長の佐々木正巳のイニシャルから取ったのだろう、「MSデイリー」とし、従業員も二百名を超える企業となっていた。道東でも指折りのメガファームとして時々新聞で報じられていたのを知ってはいたが、今回は三十年ぶりに正巳に会わなければならないのだった。

私は大学の工学部を出てから、最初は建築機械メーカーに就職し、そこで数年間仕事をした後、農業機械製作会社の大手、Y社に転職した。転職後は主に九州と関東近辺で営業をし、本部の営業課長を経て、三年前に北海道の道東支店長に任じられ、家族と共に帯広へ引っ越して来た。定年まであと五年。会社もやっと私を故郷に戻してくれたのである。

「支店長、澤別のMSデイリーからフェントの1050の見積りの依頼が来ました!」

営業部長の久島が上気した顔で僕のデスクにやって来た。フェントの1050とは、ドイツのフェント社が製造する五百馬力のトラクターで、日本でもまだ数台しか輸入されていない大型の最新鋭トラクターである。市場価格は六千万円で、仕入れ価格も輸入に関わる経費などを合算すると四千五百万円は下らない。当初は久島部長が澤別に赴き、何度か社長の佐々木正巳と交渉を重ねたが折り合いがつかず、とうとう支店長の私が出て行くことになった。

「なんだ、久島君の上司はお前だったのか!Y社の支店長だなんて、出世したもんだな」

白髪頭が薄くなり、腹が出てすっかりオヤジ然とした正巳が私の名刺と顔を見比べながら驚いた。

「いやあ、久しぶりだね。うちの久島がいつもお世話になってるな」

そう言うと正巳は間髪入れずに言ってきた。

「四千五百万で売ってくれ。釧路のクレーンズ牧場じゃ、四千五百万で同じトラクターを買ったそうじゃないか。お前の所でもできるだろう?」

「いや、あのクレーンズさんのは並行輸入の機械で、正規のディーラーから買ったものじゃないんだよ。うちはフェントの正規ディーラーだからアフターを含めるとそんな価格では売ることはできんのだよ」

「じゃあ、俺も並行輸入で買うわ。で、故障したらお前のところで部品とか、見てもらえるんだろ?」

「いや、それはできないんだ。久島からも聞いていると思うが、ディーラーとメーカーの間の契約では、並行輸入の機械への部品の供給や修理はできないし、ネットワークで登録した正規の機械じゃないと、エンジンや電気系統に不具合が起こった時にデジタルの診断装置が接続できないようになっている」

「チッ!」

正巳が舌打ちをして私を見つめた。

「じゃあ、幾らでなら売ってくれるんだ?」

苦々しい表情が挑むように聞いてきた。

「本社とも打合せしなければならないが、うちとしては最低でも五千八百万は貰わないと利益は出んのだよ」
「五千八百万か…。よう言うわ。人の足元見てからに!」

 帯広へ帰る前に私は貢の廃屋を訪ねた。相変わらず枝ぶりの良い大きな柏の樹の傍に、その家屋はかなりひしゃげた形になり、潰れかかってはいたが、かろうじて玄関から中に入ることができた。

『こんなに小さな家だったのか…』

三十年ぶりに入ったその家は意外にもかなり狭く感じた。そして私は貢の部屋だったところを見て息を呑んだ。あのゲッセマネの絵が、まだ壁に掛かっていたのだ。かなり古ぼけて色も褪せてはいたが、私はそれをそっと壁から外し、持ち帰った。

「何すか? それ」
運転席の久島部長が聞いてきた。
「思い出の絵だよ」
私は笑って応えた。
帰社後、私はその絵を綺麗に掃除し、自分のオフィスの壁に飾ったのだった。

後日佐々木正巳が正式に注文してきたフェント1050の発注は、事前に仕入れ価格の五十パーセントに当たる二千四百万円を国際送金し、フェント社がそれを確認後、初めて機械は船に積載されドイツの港を出る。その代金は自ずと輸入元の我が社が事前に立替え、回収は機械の納品後となる。そうした手続きも無事に進み、フェント1050はハンブルグ港を出たのだった。

一か月半ほどで船が韓国の釜山港に入ったと連絡を受けた二日後の午後、久島部長が私の部屋に飛んできた。

「支店長! 今澤別の佐々木さんから電話が来まして、注文をキャンセルするって言ってます!」
「何だって?」
私は慌てて携帯を手に取り、佐々木正巳に電話をした。

「極端な生産調整と飼料や電気代の高騰で新しい機械を買うどころではなくなった。悪いのは俺じゃない。まともに農政も舵取りできない農水省の馬鹿共や政治家のせいだ!」

佐々木正巳の捨て台詞を聞きながら呆然となった。久島課長がじっと私を見ている。

その時、私の目にオフィスの壁に掛けたゲッセマネの絵がまっすぐに飛び込んできた。私はよろよろと絵の前へ行ってキリストの顔に触れ、心の中で彼の名を呼んだ。

 『貢…おい…、どこにいる? 見てるか?』

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