〈エッセイ〉色メガネ
皆一様に白いランニングシャツとパンツで、一列に並び、やがて僕の順番が来た。小学一年生の時の健康診断での出来事だ。
「何が見えるか言ってみてね」
優しい顔をした看護師さんが冊子のページをめくって行く。大きな円の中に様々な色のツブツブがひしめいている。その密集した色の中にひときわ目立つものがあり、それがページごとに花だったり、動物の形だったりした。
「象さん…。お花…」
ページがめくられる毎に声を発し、見えるものを看護師さんに伝えて行く。あの頃は「色盲検査」と言ったが、現在では「色覚検査」と呼ぶらしい。しかしそれも2003年には廃止されたとの事。
次々と水玉模様の中に見えてくるものを自信満々で答えている最中に、ある絵の所で看護師さんのページをめくる手が停まった。
「カエル」と僕が答えたからだ。
「え? もう一回、これは何?」
「カエル」
看護師さんの問いかけに僕はもう一度答えた。そこには、はっきりとこちらに向かって笑いながら口を開けている蛙の絵が浮き出て見えていたからだった。
その時だった。
「ええ? カエルなんてどこにも描いてないよ!」「何にも見えないよ、カエルなんてどこにある?」
僕の後ろに並んでいた同級生数名が一斉に声を上げた。
「カエル、見えるもん。ここに」
絵を指差して僕は反論したが、同級生らは納得しない。
その時、ひとりの女子が呆れたような顔で「洋人ちゃん、嘘ついてる。カエルなんていないよ!」と言ったのだった。
その後の記憶は曖昧だが、「嘘ついてる」と言われた事に、たいそう傷つき、めそめそしながら一人で家路についたのだけは覚えている。
「洋人、あんた色弱なんだね」
学校から届いた診断結果を見て母が少し憐れんだ顔で僕を見たのは数日後だった。通知書には、「緑赤色弱」と書かれてあったように思うが、それがどんな事を意味するのか解らなかった。解らないまま10年が経過した。ちゃんと色は識別できるから普段の生活にはなんら支障はないし、人に馬鹿にされる事も無かったからだ。
小学、中学と転校を7回経験し、故郷の深川西高に進学して、来年は大学受験という秋の夕暮、「たまにはドライブに連れて行ってやろうか」と、父が中古ではあるが、買ったばかりのスカイラインという車で僕を連れ出してくれた。深川市近郊には、音江山という標高八百メートルほどの山がある。その麓に展望台があり、父はそこに車を停めた。
眼下には深川の街灯りが見える。
「深川は田舎町だけど、こうやって見ると結構赤や青のネオンがキラキラして、夜景も捨てたもんじゃないだろう?」
父の言葉で僕はその時初めて自分が色弱なのだという事を実感したのだった。
「全部白っぽい灯りにしか見えないよ。赤や青のネオンなんてどこに見えるの?」
そう言うと父は驚いたように僕の顔を見つめた。信号の三色のライトや、パチンコ店の派手なネオンは、近くから見るとその色そのものに見えるのだが、数キロも離れてしまうと、それらはほとんどが白い灯りにしか見えない。17歳になって初めて、それが自分の色弱のせいなのだという事を理解した。
「僕、色弱だからさ…」
そう告げると、父は残念そうに「そうか…。あんなに綺麗な明かりが見えないってのは、ちょっと寂しいな」と言った。
かといって、父とのその会話で僕は特段傷ついたわけでもなかった。寂しいというよりも、不思議な感じがしたのだ。自分に見えている世界の色と、他の人々が見ている色の間に若干の相違があるという事。他の人には世界がどんな風に見えているのだろうという事。そんな疑問がその後ずっと頭のどこかに浸みついた。
大人になってしょっちゅう登山をするようになった。自分の色覚障害を意識するのは紅葉の時期だ。
近くまで行くと、見事に赤く見える大雪山系の紅葉も、遠くから見るとくすんだ茶色にしか見えない。
観光用の絵ハガキにそうした紅葉の写真が載っていて、友人に、「本当にこんなに鮮やかな色をしているの?」と訊くと、皆「そうだよ」と応える。
日常生活でもそうだ。黒い車だと思っていた友人の愛車の傍に行ってよく観察すると、その車体は実際には濃いグリーンだったりする。
この色の見え方の違いが、青年期を含めて僕の人生や精神にどんな影響を与えて来たのか、そんな事を考えても詮ない事ではあるが、少しだけ悔やまれるのは、今まで訪ねた外国の多くの場所の風景が、本当はもっと色鮮やかなものだったのに、自分はそれに気づかずに見過ごして来たのではないだろうか、という事だ。
こうして随筆を書いていても、色を表現するという事に関して、自分がいかに貧困な語彙しか持っていないかに気付かされる。
日本語には、「赤」を表す色の名詞は四十近く。緑を表す単語も三十以上存在する。しかし色見本を見ても、赤に属する「薔薇色」と「唐紅」は全く同じ色に見えるし、緑色に属する「ひわ色」と「もえぎ色」も、僕には区別がつかない。
最近になって「色覚補正レンズ」なるものが登場した。色弱の人が装着すると、色が正常に見えるようになるのだという。
世界が違って見えてくるかもしれない。
色に対する興味が高まり、語彙や色彩に関する言い回しも磨けるかもしれない。
「色めがね」をかけて初めて、僕には本当の世界が見えてくるのだろうか…。
意味がないと言われてはしょうがないが、真剣にそんな事を考えているのである。
ちなみにこの記事の写真で「52」が他よりはっきりと見える人は、僕の友達です(笑)
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