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黒のタートルネックが着られない(4)

 彼女と会う場所はいつも銀座か新宿だった。お気に入りだったのは、銀座七丁目の路地裏にあるティーハウス。数十種類の銘柄の中からお茶を選んでオーダーすると、たっぷり二杯分入ったポットが運ばれてくる。白くて分厚いテーブルクロス、おしゃべりに興じる女性たちのざわめき、香水とお茶の入り混じった匂いに酔いながら、私たちはいつも午後の2時間ぐらいをそこで過ごした。

 お茶を飲みながら他愛ない話をしている時でも、彼女はバッグから錠剤を取り出し、お茶で流し込むことがよくあった。そんなとき私は、何か失言してしまっただろうかと自分のした話を思い返して、薬を飲みたくなった。ただし胃薬。

 彼女があの病にかかったのは、確かに脳の手術による影響はあるのだろうけれど、私にはどうしても彼女自身の結婚生活と切り離して考えずにいられない。フィジカルな原因とは別の、メンタルの原因。知り合った頃からお互いの恋バナをそれぞれの過去に遡って熱く語り合った私たち。大学時代から勤め人になった頃まで長くおつきあいしていた人のこと、その男性と別れたあと、なんだかはっちゃけてしまったいくつかの短い恋愛を、彼女の傍でリアルタイムで見てきた。そして彼女が選んだ結婚相手は、一流大卒で3歳下のエリートサラリーマンだった。初めて彼を紹介された時のことを、残念ながら私はまったく覚えていない。

 彼女は夫が大好きだった。死ぬまでずっと。好きなものが同じで、感性が似ていて、頭が良くて知識も豊富、一緒にいると楽しくて愛おしいと幸せそうだった。大好きだと欠点は欠点でなくなる。あばたもえくぼで可愛らしいアクセントに見えてくる。それはそう。誰もがそう。

 あの日のことは忘れられない。私たちはいつものように銀座をぶらつき、ティーハウスで午後を過ごした。陽が落ちて銀座の街にネオンが灯りはじめると、専業主婦たちはそわそわと帰り支度を始めた。テーブルクロスが取り替えられ、ティーハウスが夜の準備を始めると、彼女も腕時計を見た。ただその日はなんとなく二人とも、もう少しだけ銀座の空気に触れていたくて、軽く一杯飲みながら蕎麦でも食べて帰ろうということになった。

 彼女が夫と来たことがあるという、老舗の蕎麦屋に私たちは向かった。毎度のことではあったが、店に向かいながら私は少しドキドキしていた。高給取りの妻になった彼女は、独身時代とは比べものにならないほどにお金の使い方が派手になっていた。それが当時の彼女の生活レベルだったのだから、何も咎められることではない。実際のところ当時の彼女は、暮らしも趣味も以前よりずっと洗練されていた。ただ私がみじめったらしく僻んでいただけのことなのだ。レストランでオーダーをするとき、値段をろくに見もせずに決めてしまう彼女のことが心底羨ましく、彼女が選ぶお店はどこも美味しかった。・・・銀座の老舗のそば屋なんて、きっととっても高いんだろうな。財布の中を心細く思いながらも、たまにはいいかと私は何食わぬ顔をした。

 夕暮れ時の銀座は、昼間の観光地のような雰囲気とは異なり、ダークスーツの男たち、艶やかな夜の蝶たちで妖しく輝きだす。デニムにスニーカーという出で立ちの自分を場違いに感じながら、私たちはふらふらと目当ての店の前まで来た。

 少し前から彼女はしきりに携帯電話を気にしていた。今日はちょっと帰りが遅くなると夫に伝えるために電話しているのだがつながらないという。夕方6時、まだまだ仕事中の夫君はきっと電話に出ることができないのだろう。その頃彼女は携帯メールを使用していなかった。連絡を取るのに不便なので使うように勧めていたのだが、旦那のお許しが出ないから使えないとのことだった。何のお許しがいるの?と尋ねると、

「携帯メールを使えるようになると、私が浮気すると思ってるのよ」

「うわ、それマジ?何だその理由?いい加減にしてよ…」

仕事中に何度も電話を鳴らされるより、メールの方がよっぽど迷惑がかからないだろうに。その夜、一向に繋がらない電話に、彼女の表情はどんよりと曇りだした。

「きっと忙しいんだよ。あとでかければいいじゃん。なんなら私から言ってあげようか?」

 店に入らず前で立ち続けているのも居心地よくないので、ゆっくり辺りをひとまわりすることにした。携帯をいじっている彼女を視界に入れつつ、ネオンがひとつ、またひとつと灯っていくビルを見上げながら、ぶらりぶらりと通りを行ったり来たり。仕事中なら繰り返し電話されたら迷惑だろうなあ。電話にでないということは出られない理由があるからで、それはきっと忙しいからだろうし、いいんだろうか…こんなに何度も電話して…。

 視界から彼女を失った私は、はっとしてあたりを見回した。すると数メートル後ろの暗がりの中で彼女は携帯電話を耳に押し当て、片手で通話口を覆いながらうつむいていた。ようやく夫君が電話に出たのだろう。しばらくして携帯電話から顔をあげた彼女の眼差しは虚ろで頬と唇は白かった。

「ごめん、やっぱり…今日は帰る。帰らなきゃ…どうしよう…ものすごく怒らせちゃった。何回も何回もかけてくるな!って…だって繋がらないからかけたのに…。ああどうしよう、どうしよう、本当にごめんね…」

 震える声であやまり続ける彼女がいたたまれなくなった。地下鉄の階段を駆け下りていく彼女を改札口まで見送り、エールを贈った。「ごめんよ!誘った私が悪かった!」

 振り向きもせずにホームへ向かう彼女の背中を見送ると、途端に肩がどっしり重くなり胸がつかえた。独り身同士、一緒に夜中まで呑んだくれていた日々が心底懐かしかった。あの頃の小悪魔的だったあんたは一体どこへ行っちまったんだ…。 (続く)


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