最近の記事

妙子叔母さんの話(1)

 母と16離れた伯母は、私にとって祖母のようであり第二の母のようでもある、楽しいオバチャンだった。9人兄妹の末っ子だった母と伯母は気が合ったらしく、おばちゃんは私たち家族にとってずっと身近な存在だった。  おばちゃんは生涯独身で、私の知る限り恋人や子どもはいなかった。聞いた話では戦争中、ロシア人男性と恋に落ちて身ごもったのだが、あの時代のことだし、相手は敵国人だったから、かわいそうな結末に至ったという。戦後まもなく本土に引き揚げると、すでに女学校を卒業していたおばちゃんは東

    • 山に雨が降るときは

       山に降る雨には音がない。草や木や地面は、降りそそぐ雨粒を際限なく吸い込み続ける。山が吸い込んだ雨水は、やがてあらゆる生きものの命の源となる。山はひとつながりの生命体だ。大昔からずっと続いてきた、生命のループだ。  山で雨が降るときは、音より先に匂いで気づく。水気を含んだ空気が雨粒となって空間に落ちるその寸前、あたりにじっとりとした湿り気が漂い満ちると、草や土はウルウルと色めき、今か今かと水分の滴りを待ちうける。  そんな植物たちのざわめきが、締め切った部屋の中にまできこ

      • 小2の夏休み、私は泣いた。

        私が小学生の頃までは、我が家も家族でお出かけというのを頻繁にしていた。夏休みには西にある父の実家へ祖母を訪ね、家族一緒に過ごしたものだ。あの夏までは。 小学校2年生か3年生の夏だった。 父の実家に滞在中のある日、父と私の二人で、隣県に住む父の従兄弟を訪ねた。父と同年代であったそのおじさんは独身で、だだっ広い田舎家に一人で住んでいた。 低い山々に囲まれ、深い緑に包まれたその家は、屋根の大きな昔風の平屋だった。男の一人住まいらしく殺風景で、台所などは大昔に作られたであろう薄

        • 子どもと動物に好かれた父でした

           幼い頃、自分の父は磯野さんちの波平さんやマスオさんとは違う、と感じていた。ギャンブルに狂って家にお金を入れなかったり、よそに女の人を囲ったりというような問題を起こす人だったわけではない。人と接する態度が独特なのだ。母いわく「社会人としてあたりまえの挨拶や社交辞令ができない人」だったらしい。子どもだった私がそうした父の姿を見ていたわけではなく、後に母から聞かされて知ったのだ。しかし子どもながらにも薄々感じてはいた。我が父が、ちょっとした変わり者だということを。 それは正月や

        妙子叔母さんの話(1)

          黒のタートルネックが着られない(6)

           彼女が逝ってひと月半後、夫君に頼まれて遺品整理を手伝った。彼女の部屋で、彼女を包んでいた膨大な量の物を目のあたりにして、背筋に冷たいものが走った。  彼女の病は私の想像を遥かに超えていた。  たとえどん底の時でも、彼女が私に見せていたのはよそいきの姿だったのだ。彼女があの白い錠剤と一緒に飲み込んでいたのは、心の内なる叫びや嘆き。私には想像もできない深い悲しみは彼女の体内に巣食い、内側から肉や臓や血をむさぼり続け、じわじわと蝕んでいった。そして部屋の中にはさまざまな物が堆

          黒のタートルネックが着られない(6)

          黒のタートルネックが着られない(5)

           仕事を辞めたい、辞めたい、と言う人に限ってなかなか辞めたりしないように、死にたい死にたいと言っている人は実際死んだりなんかしないのよ。そう言って彼女は笑っていた。そんな彼女の心にゆらりゆらりとさざ波が立つのは、季節の変わり目や、どんよりした曇空の日だった。それが病のせいとわかっていたが、度重なるうちに「またか…」という気になったのは確かなのだ。 いつだったか、彼女が言った。 「鬱になってから離れていった友だちは多いよ。仕方ないけど」  そのときはなんて友だち甲斐のない

          黒のタートルネックが着られない(5)

          黒のタートルネックが着られない(4)

           彼女と会う場所はいつも銀座か新宿だった。お気に入りだったのは、銀座七丁目の路地裏にあるティーハウス。数十種類の銘柄の中からお茶を選んでオーダーすると、たっぷり二杯分入ったポットが運ばれてくる。白くて分厚いテーブルクロス、おしゃべりに興じる女性たちのざわめき、香水とお茶の入り混じった匂いに酔いながら、私たちはいつも午後の2時間ぐらいをそこで過ごした。  お茶を飲みながら他愛ない話をしている時でも、彼女はバッグから錠剤を取り出し、お茶で流し込むことがよくあった。そんなとき私は

          黒のタートルネックが着られない(4)

          黒のタートルネックが着られない(3)

           彼女が鬱を発症したのは手術の後からだったか、手術前からのことだったのか、記憶はあいまいだ。  心の病は厄介だ。痛みが目に見えることはなく、本人以外に本当の辛さはわからない。それを差し引いても、その頃の私は彼女の病をよく理解できていなかった。  食事や散歩を一緒にした別れ際、私はにこやかに手を振りながら「頑張ってね!」と声をかけた。口をへの字に曲げて、今にも泣きだしそうな彼女の顔を忘れられない。そのひと言が鬱病患者にとって禁句だということを、私は随分たってから知った。

          黒のタートルネックが着られない(3)

          黒のタートルネックが着られない(2)

           それから数ヶ月して、彼女が手術を受けたことを知った。話を聞いたのは退院後の体調も落ち着いた頃だったが、命に関わることではないと言うものの、それが脳外科である以上、危険でなかったはずはなかろう。 「脳下垂体がね、ちょっと」 という途切れ途切れの説明に私はうんうんと頷くばかり。 「大変だったね、言ってくれればお見舞いに・・・」と言いかけて言葉を飲み込んだのは、彼女の様子がどことなく以前と違うのを受話器越しに察知したせいだ。  バイトを辞める少し前から、彼女の様子が以前と

          黒のタートルネックが着られない(2)

          黒のタートルネックが着られない(1)

           寒風が肌を撫でる季節になると、首と名のつく場所を暖めるのがよい。その点、首もとをすっぽり覆うことのできるタートルネックのセーターは便利で、色は何にでも合わせやすい黒が使い勝手がよろしい。けれども私は、黒のタートルネックに袖を通すことはできない。おそらくこの先も一生。  48歳で桜の散り際に自らの命を絶った友は、いつも黒のタートルネックを着ていた。「スティーブ・ジョブスか」というくらい。冬はセーター、真夏には薄手のカットソー、ボトムスは黒のスラックス、靴は黒のスニーカー、バ

          黒のタートルネックが着られない(1)

          ふたり景色

           正夫さんのおうちは山手通り沿いに建つマンションだった。外観はレンガ調のタイル貼りで、エントランス扉は押して開けるガラス製だ。 「ここなんですよ」と正夫さんは中から扉を押さえて入れてくださった。外観タイル張りのマンションが流行りだしたのはいつ頃だろう。8つの頃、家族で引っ越した桜新町の賃貸マンションがこんな感じだった。破損や汚損のない共用部からは、行き届いた管理が窺い知れた。建物はきっと分譲なのだ。  エレベーター扉が開くと、目の前に住宅街の空が飛び込んできた。正夫さん宅

          ふたり景色

          家族が老いていく時に

           義父・キヨシ92歳、近頃ボケが進んでいる。もともと気立て優しく気性は穏やか、真面目で仕事熱心、手先が器用で工夫上手、料理から洗濯、掃除など家事全般をこなす人だった。3年前、自宅近所を自転車で走行中、ふらついて転んで道路脇のブロックベイで頭部を打ち、硬膜下血腫を発症して外科手術をした。どうもこの事故を境に変化が進んだように思う。 「あの事故さえなければ」と夫も言う。 背は低いが骨格はがっしりしている義父キヨシ。とはいえ90を越えた体である。筋力、とくに脚力の衰えは進み、補

          家族が老いていく時に

          お墓まいりの代わりに

           お墓参りをするたびに寂しい気持ちになるので、最近はちょっと足が遠のいている。  お墓参りは亡くなった人のためというよりも、残された人が心の拠り所を得るためにするのだと私は思う。幼い頃から親に連れられて来ている、自分の親族の墓所なら懐かしくもあり、亡くなった人を偲ぶ場所にもなろう。がしかし。友人の墓は彼女自身の信仰とは関係なく、彼女の嫁ぎ先のもので、そこに眠る彼女以外の方々を、私は知らない。お寺も彼女の葬儀で初めて訪れたところで、私に縁はなく、あるのは悲しい記憶ばかり。お寺

          お墓まいりの代わりに

          1年間の在宅生活を総括してみました

           昨春の緊急事態宣言発令以降、ずっと体調が良くない。いわゆる更年期症状で、今まで月経痛や月経前症候群の辛さとは無縁だったというのに、ここへきてかなりしんどい目に遭っている。とはいえ痛みの度合いは他人様と比べようもないので、もしかすると自分は大げさなのかもしれない。元来痛みというものと無縁だったために、大したことのない辛さも、余計に感じてしまうのか。  最初の一撃は梅雨に入った頃、右足付け根の関節痛。4月におよそひと月かけて大引越しをやり、重たい荷物も相当運んだから、その影響

          1年間の在宅生活を総括してみました