核兵器廃絶とそれが求める覚悟 2022年9月

核抑止力はあるか。あると思う。
1974年にインドが、1998年にはパキスタンが核兵器を持ったことで、インドとパキスタンの大きな紛争はそれ以来無くなった。1990年以降のカシミール紛争では、数千人の死者を出しているようだが、大きな紛争には発展していない。これは抑止力が効いている可能性がある。
しかしこれには核抑止が効いていることの証明としては不足していると疑われるところがある。1974年以降現在までの中で、1974年から1998年までは、インドのみが核を保有して圧倒的に戦力で優位だったにもかかわらず、紛争もしかけず、係争地の領土も拡張していない。核抑止が効いたのではなく、たまたま外交努力が実を結んだ可能性もある。

今ロシアとウクライナが戦争をしているが、アメリカやEU、トルコからの武器がウクライナに供与されている。アメリカがどれくらい強力な武器を寄付するかによって、戦況が左右するといわれている。
その時に心配されているのが、あまりに攻撃的な武器をウクライナに渡すと、ウクライナがロシアに反撃して、ロシアが戦術核兵器を使うのではないか、と言うことだ。つまり核抑止が効いている。
しかしアメリカが更に攻撃的な武器、例えば最新式の戦闘機をウクライナに渡すと、、ロシアはそれを阻止するため、直接アメリカを標的にせざるを得なくなる。アメリカはウクライナのためにロシアと戦争をする気は全くないだろうから、その点でもウクライナへの武器の寄付は抑制される。
なので明白に核抑止が効いている決定的証拠にはならないが、上記の話は十分に説得力のあることだと思う。

で、核抑止はある、と言う前提で話を進める。しかも核保有国の政策決定者は核抑止を前提にして、政策を立てているので、その点でもこの前提は有意義である。
(もし核抑止力が無いのであれば、利権亡者の軍産複合体を説得するだけでいいが、もし核抑止力があるのなら、かつそれを無くしたいのなら、核抑止があることを前提にして、それをどうやって無くすかを考えていかなければならない。正直に言えば、無いと考えるほうが圧倒的に難しいと思う)

生物としてのヒトは、同種を殺したくない。しかし社会的動物としてのヒトは大切な人の為に、敵を殺す。今までそうやって生き延びてきた。
核兵器は通常兵器と同じく、攻めてきた敵を、仲間を守るために殺すのに便利である。より攻撃的な武器が、仲間の命を救ってきた。核兵器はその延長線上にある。核兵器の特殊性は、無差別つまり非戦闘員も殺してしまうところと、放射線の汚染が長年続くところにある。

だから核兵器は使わないでおきましょう、と言う意見が出る。

そこで大切なのは、仲間が殺されているときに、使える武器があるのに、それを使わない選択を出来るだろうか、と言うことだ。もしくは今後仲間が殺される可能性があるときに、あえて使える武器を解体することが出来るだろうか、と言うことだ。

核抑止があると前提にしたとき、それでも核兵器を廃絶することを選ぶということは、仲間が殺されても我慢する、という覚悟を持つことだと思う。
仲間が殺されても、ヒトという種を大切にして、別言すれば、人類の為に我慢する、と言うことだと思う。
 核兵器廃絶、とは、そのような覚悟が必要だと思う。


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