右へ曲がって、ヒロシマ
ドキッとした。運転免許の実技試験で車に同乗した試験監督から「次を右へまがって、ヒロシマ」と一言。私の名前には「ヒロ」という音が入っている。この町では、私の名前はヒロシマと結び付けて覚えられるのか。間違いに気づいた試験官は、少し気まずそうにしていた。試験はギリギリ合格。
この小さな町で、日本にルーツを持つ方は何人いらっしゃるんだろう。77年前の戦争を意識することは普段ほとんど無いが、原爆の日や終戦の日が来ると思うと、少し緊張する。去年出張で日本から来た際、ちょうど真珠湾攻撃の日だった。特に何も起こらなかったが、なんとなく据わりが良くなかった。
長崎ちゃんぽんの美味しさを同僚に説明した翌週、あのヒロシマスタイルの麵料理の名前はなんだっけ?と聞かれた。ああ、ナガサキちゃんぽんね。ああ、ヒロシマもナガサキも原爆という共通項でくくられているんだ。再度説明したら、自分が何を間違えたのか理解して、また少し気まずい空気が流れた。かく言う私も長崎には行ったことすらなく、8月9日という日は、姉の誕生日として最初に記憶した。
戦争の記憶は私のように戦争を体験したことの無い世代にも受け継がれている。地元の博物館に行けば、歴史展示では第二次大戦の日本との戦争の記述に多くが割かれている。展示には「敵性市民」であった日系人の強制収容キャンプの記述もある。かつての敵国にルーツを持つ外国人として、この地で暮らし始めた私としてはドキッとする。「internment(収容)所」とするか「relocation(移住)所」とするか。争いがもたらした苦難は、強い政治性を帯びて語られる。戦前はこのエリアにも日系移民のコミュニティがあったそうだ。先人達が生活を営んでいた痕跡は、通りの名前などに微かに残る。戦争がもたらす分断の哀しさ。
以前、仕事で日系三世の方とお話する機会があった。その方は、収容所での暮らしを余儀なくされた一世、二世の苦難を、「imprisoned(投獄された)」とさらに強い言葉で語って下さった。三世は戦後、一世、二世よりも、そして私はもっと多くの機会と幸せに恵まれていることも教えて頂いた。本当にそうだと思う。「ウルサイジジイ?」。外国語としての日本語で、冗談を交え語る穏やかな表情が印象に残る。77年という時間の延長線上に私が生きていることを示す痕跡は、いろんなところにある。それらは意識しないと容易に忘却へと追いやられる。
8月6日8時15分。(米国時間は8月5日金曜日)。職場では、定時を前に週末の予定やご飯の計画が、呑気で無秩序に、しかし平和に語られていた。こんな取り留めない会話でさえ、いかに得難いものなのか。世の中を見渡せば、過去を振り返ればわかるだろう。平和や幸せを簡単に手放してはならない。忘れずに、この町の人々と生きよう。
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