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目を悪くしたから見えた5つのこと

ルクセンブルグに住む知人のフランス人から写真付きでLINEが届く。なんでもクラシックカー・レースに参加(参戦?)したとのこと。年齢は彼の方が10歳近く上かと思う。完走したクルマをバックに撮った破顔の笑顔が眩しい。

翻って、僕はといえば、緑内障を悪くして、運転免許をみすみす失効させたのが3年前? 4年前? 妻とクルマで出かけるたびに助手席側に周り込むこともすっかり板についた。あれほど機械音痴だった妻は妻で、いまではナビもすいすい独りでセットできている。必要は発明の母……ならぬ、必要は発育の母ということか。

目を悪くすると、自ずとできること、できないことが峻別される。ジブリ映画「風立ちぬ」で、主人公の堀越二郎は幼き日に飛行機乗りに憧れながらも目が悪いばかりに断念。長じて傑出した航空機の設計士となる、というのが重要な物語の伏線であった。

一方、僕が断念したものは、例えば、趣味の写真。あ、いや、今もスマホでなら日々、写真はパチパチ撮っている。記念として、記録として……そして、「身体の代替機能」として? レストランのメニューなどは、一度iPhoneで写真を撮ってから、親指と人差し指でピンチアウト。こうすれば、細かい文字も難なく読めるのが便利便利。カメラ機能に限らず、目を悪くしたのが、スティーブ・ジョブズがiPhoneを世に問うた後で本当に良かった。

もっとも、あれほど大切にしていたNikonやCanonの銀塩カメラやSonyの単焦点デジカメなどはとんと持ち歩かなくなった。手動でピントを合わせたり、ファインダー越しに構図に凝ったりにもはや関心はない(というか、もはや苦手)。

僕が一度は目をとことん悪くして、その後、何人かの名医との出会いで徐々に視力と気力を取り戻す過程は、社会がコロナに立ち向かう、この4年半の再生の物語とぴったり符号する。

めのこだが、100をフルとして、緑内障の悪化でいったんは40にまで急降下した視力は、この4年半、緑内障、白内障の手術に加え、眼瞼下垂の改善施術まで受けて、70か75くらいまで見えるようになった感じかと。

ここで肝心なのは、一度はどん底(=40)を経験したということ。人間、落ちるところまで落ちるのもたまになら悪くはない。落ちてこそ分かる当たり前にできることの有り難さ。一度不幸のズンドコを味わっていなかったら分からなかった、感謝すべき「日々の奇跡」には、例えば、次のようなものがある。

①「美味しそう」とまずは眺めてから食べ物を口にできる奇跡

目を悪くするまでは、味覚は口内で感じるもの、に疑いはなかった。もちろん、食べ物は舌や咽頭の上皮に集中するという味蕾(みらい)に受容されて初めて「美味しい!」とか、「うん? 苦いぞ」とか感じられるのに間違いはない。が、本当に旨いと感じるには、口に入れる前の、食べ物を目で愛でるという通過儀礼が実はとても大事ということ、かつてはいまほどには理解できないでいた。

目の前に供される料理の輪郭くらいは分かる。ただ、それがナニモノかはもとより、パサパサ系かネチョネチョ系か……テクスチュアすら想像できないようなとき、ヒトは箸を付けるのも躊躇うものと知った。「美味しい!」という感情は、実は、視覚経由の美味しい予感と、味覚経由の美味しい実感との「答え合わせ」だったということ。

②「ちゃんと拭けた」と確認してからパンツを上げられる奇跡

緑内障の「見えにくさ」は、実は濃淡や明暗、すなわちコントラストを感じる機能の低下に負う部分が大きい。同じ大きさの文字でも紙に印刷された文字よりも、バックライトに浮かび上がったスマホやパソコンの画面の文字の方が断然判読がやさしい。

トイレで大を済ませた、ウォシュレットもひとしきり中てた、あとは仕上げに? 保険に? 紙で拭く。そんななんでもない日常の動作に自信が持てない。トイレットペーパーの白に黄金色のシミのコントラストがビミョー過ぎて、「これでよし!」という納得感というか、踏ん切り(フン切り?)がつかないのである。ヒトは日々、意を決してパンツを上げているのだった。

③歩道の起伏を無意識に微調整しながら歩ける奇跡

緑内障とコントラストの問題は、しかし、「フン切り」に限った話ではない。階段を上り下りするときがより深刻。例えば、駅の階段のステップの角が黄色く着色されていることの重要性には目を悪くして初めて思い至った。とりわけ石段は陰影が目立ちにくく、黄色のガイドラインなしには(上りはともかく)下りは決死の覚悟を要するのである。

もっとも、なんの変哲もない、タダの歩道も油断は禁物。いかなる歩道や駅の構内も真っ平というのはむしろ例外で、大概は緩やかなアンジュレーションを描いている。視覚に異常のない分には、日々、このビミョーな起伏や高低差を無意識に目で見て判断して、歩幅や踏み込みの度合いを調整しているのだ。あの頃の僕は、転びこそしなかったものの、何度もつんのめりそうになった。「フツーに歩く」も、実は小さな奇跡の連続だったという事実。

④電車内で向かい合わせに座った女性をチラ見できる奇跡(奇癖?)

例えば、あなたが吉祥寺から電車を乗り継いで銀座の鳩居堂で用事を済ませてきたとしよう。その日の具体的、物理的な収穫は2千円の便箋と封筒のセットに過ぎないかもしれないが、実は往復2時間の移動でありとあらゆる発見と経験をなし遂げている。

それが、視力40%だと、例えば、電車でたまたま向かい合わせになった妙齢の女性が、痩せているのかふくよかなのかくらいは分かる。ただ、肝心のお顔がカオナシなのだ。

「千と千尋の神隠し」

僕に言わせれば、カオナシにはまだ薄っすらと目鼻はある。目の前の女性の顔は、例えて言えば、学校の美術の時間に、ひとしきり絵筆を洗った後のバケツの中身。基本、白濁したその液体は、よーく見れば、何色ものグラデーションでぐるぐる渦を巻いている。一期一会。ヒトはヒトに日々ときめきながら、でも、そのほぼすべてを忘却しながらも、知らず知らずのうちに今日を生きる活力を得ている。

⑤妻の目を見ながら一日の出来事を語り合える奇跡

3年ほど前、小さな会社の社長に就いた。真っ先にしたことは、社長室の大仰な応接セットを余所に追いやり、代わりに天板の直径120センチと、わりと小ぶりな丸テーブルを置いたこと。これならば、自分を含めた打ち合わせの参加者全員が最大でも120センチの範囲内に収まる。結果的に、カオナシの参加の余地をほぼほぼ駆逐できたのであった。

大学も会社も「非常勤」となったいま、日々、カオアリの妻と朝食を摂り、お茶をして、取り止めもない話に興じられる、なんの変哲もない日常の楽しさ。時折、割り込むオンライン会議も、先方は鼻先35センチのスクリーンにタイル状に並んでおられる(もちろん、こちらもみんながみんなカオアリ!)。

視力を7割まで戻したいまも、許容できる物理的距離はだいぶ狭まってしまったが、フレームに上手く収まらないなら、こちらから「人間ズーム」的に寄っていく、単焦点カメラな態度、生き方こそ大事、とやっと思えてきた今日この頃である。

※謝意: 使用した画像(2点)は、スタジオジブリ公式HPの「作品静止画」集(パブリックドメイン)より合法的にダウンロードの上、公共性・非営利原則を遵守し使用させていただきました。感謝申し上げます。

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