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バス停があるからバスは来る、とは限らない

およそ10年前、洞爺湖畔から10キロの北海道伊達市郊外に戸建て住宅を買ったのは、ヤフー不動産に載った豆つぶほどの全景写真1枚がきっかけだった。中古ながらも築浅で、母屋と一体となったガレージも含め、全体のプロポーションというか、フォルムというか……佇まいが実に凛として美しいな、と思った。「一目惚れ」だった。

当初、勤務先である、札幌の大学までのアクセスのことなどいささかも眼中になかった。JR伊達紋別駅までは5キロ近くあるが、高速の「伊達」インターがすぐなのは下見のときに確認済み。オマケに、当時は民主党政権下の社会実験で高速の無料化をやっていて、それなりの恩恵にも与れた。

もっとも、いざ札幌から移り住み、暮らす段になると途端に、最寄りのバス停のことが気になり出した。駅まで路線バスがあるにはある、と聞かされていたからだ。

なので、ある朝、ダイニングの窓から近くに見える荒ぶる有珠山と、遠くに見える優美な羊蹄山の対照的な美しさに見惚れていたら、どこからともなくすっと現れた路線バスが我が家の真ん前で停車したのには驚いた。誰が乗るでも降りるでもなく、時間調整に1分か2分そこにとどまって、で、再び動き出したではないか。

慌ててサンダルをつっかけて小雪ちらつく裏庭に出てみれば、除雪車にでも押し倒されかけたのか、斜めっている時代がかったバス停のポールが一本そこにある。背後の電柱と同化していたとはいえ、不覚にも我が家の真ん前がバス停……いや、バス停の真ん前が我が家だったことに気づくのに数ヶ月を要したのである。

不動産広告にいう「徒歩1分は80メートル」換算に従えば、

「交通至便。最寄りのバス停まで徒歩0.5分!」

というところか。もっとも、前のオーナーさんがそのことを売り文句にするでもなかったことにすぐに合点がいった。バス停は目の前とはいえ、肝心のバスの本数が極端に少ないのである。午前中は8時半と11時半の2本。午後に至っては、3時台に1本あるだけの計3本。バス停至便ながらバス不便とはこれ如何に。

1日3本では到底バスは当てにならないとばかり、各戸、自衛の手段として軽自動車も含めて自家用車を複数台所有することが常態化する。畢竟、バスにはますます乗らなくなる。その悪循環。結果、バスを走らせ続けるコストは役所経由での我々の税金が補助金として充てられているのは火を見るより明らかである。

僕にできることといえば、まずは、努めてその路線バスの乗客となること。ときに誰ひとり乗ってこないかもしれないバスの運転手であり続けることは、誰にも読まれないnoteの書き手であることくらい張り合いのない行為なのだから。彼ら、彼女らには「好き❤︎」ボタンを押すような、確かな声掛けが絶対に不可欠なのである。

ところで、伊達の家に限らず、僕の人生、バス停との相性がすこぶる良い。

例えば、2003年に半年暮らしたカナダでは、徒歩2、3分のところにバス停が7つも8つも集結していたのである。アルバータ州レスブリッジ市のレスブリッジ大学キャンパス内の教員住宅を住まいとしていたのだが、ここでは定時、定時に、ロータリーに停まった7、8台の行き先バラバラのバスが一斉に発車するという、独特のシステムを採っていて、それはそれは壮観だった。

中学生の次男と野郎二人、半年寝食をともにした僕たちは、お互い授業や学校のない午後や週末ともなると、それが義務であるかのように決まってダウンタウン行きのバスの客となるのだった。息子に「一品料理のひろちゃん」といわれっぱなしなのは心外だが、さりとてその「ひろちゃん」からして外食を心から渇望していたのである。

その週末も、ダウンタウンのモール内のレストランで早めの夕食を済ませ、同じモール内のシネコンで映画を観た僕たちは、映画の感想をあれこれぎゃあぎゃあ語り合いながらバス停に急いだ。「大学行き」の終バスまでいくらも時間がなかったのである。

無事バス停に着くや、しかし、ただならぬ雰囲気を僕らはほぼ同時に察することとなる。本来なら、少なくとも数人は列をなしていてもおかしくない、我らと同じ大学キャンパス内の寮生たちが誰ひとり見当たらないし、案の定、時間を過ぎてもバスは来ない。後で分かったことだが、週末のバスダイヤは夕方早々に全面キャンセルとなるのがここの慣わしとか(ここは、「カナダの伊達」なのかよ……)。

ケータイも携帯していない当時の僕たちには、タクシーを呼ぶすべもない。残された途はたったひとつ。ダウンタウンから大学までひたすら歩く、ということだった。

Whoop-Up Drive, Lethbridge

距離はまだいい。せいぜい5、6キロではなかったか。問題は、しかし、大学はオールドマンリバーを隔ててダウンタウンの対岸にあるということ。川に架かる自動車専用のウープアップドライブを如何にして向こう岸に渡りおおせるか、である。


結論的には、しかし、自動車専用道とは別にウープアップドライブは歩道を併設していて大いに助かった。

ただ、周囲は薄暮から漆黒の闇に変わろうかという時間、街灯ひとつないその小径を、中学生とはいえ、幼さを色濃く残した息子を前の虚勢こそ崩してはいなかったが、父の心細さといったらなかった。途中途中のブッシュの中に、やけに立派な角を持つ得体の知れない、大きな生き物のシルエットが浮かんでは消える。しかも、そもそもこの辺りはラトルスネーク(ガラガラヘビ)の生息地としてつとに有名である。

君とのあの夜の散歩のことを僕は一生忘れないし、以来、心に刻んだのだよ。すなわち、大事なのはそこにバス停があるから良かった、ではないということ。例えば、タワマンの要・高速エレベータにも「定期点検日」があるがごとく、バス停にも「休日ダイヤ」という番狂せがあること、何かの戒めとして肝に銘じたい。

「バスの来ないバス停とかけて、難攻不落な彼女、と解く」

「その心は?」

「立っているだけ無駄。——ねづっちです」

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