ソウルで逝った山内直人先生を思う
研究者仲間から、大阪大学国際公共政策大学院前教授で、日本社会関係学会現会長の山内直人先生が先の月曜日(6/24)、滞在先のソウルで急逝された、との連絡が相次いだ。依然、心のどこかで誤報であって欲しい、と願っている。
最新の情報では、同先生が、週末に韓国・延世大学で開催された非営利組織(NPO)研究の国際学会(ARNOVA)から長年の貢献に対する最高位の表彰を受けられたことや、韓国へは奥様も同伴されていたことなどを知ることができ、研究者としてはひとつの栄誉ある区切りであったな、とは思う。
ただ、それにしても、69歳は早すぎた。スマホで画像をググってみれば、どれもこれもが七三分けの笑顔で年齢を微塵も感じさせない山内先生ばかり。まだ、当分はアカデミアの一線で研究の新たな荒野を拓く切込隊長の役回りを担われるものとばかり思っていた。本当に無念でならない。
他方で、これまではお一人で世界中を飛び回っておられたのが、今回の韓国もしかり、最近では奥様も一緒に動かれる機会が増えていた由。これからは、少しゆっくりご家庭中心の生活に重心を移されていたのではないかと思う。奥様、お嬢さんたちの突然の喪失感を思うと胸が締めつけられる。
山内先生との出会いは30年ほど前、アメリカ・インディアナポリスのインディアナ大学での国際学会でである。まだ、社会人院生の「研究者未満」として独りでの参加であったため、なにかと心許ない僕に、先生の方から声掛けしていただいた上に、近くのイタリアンレストランで食事までご馳走になった。二人でワインを2本ほど空けながら、尽きぬ話題がとにかく楽しかったと記憶するが、とりわけ、経済企画庁の役人から学究に転じたご自身の経験に裏打ちされた研究者道の話——とりわけ、裏街道の話?——は実践的で、その後の人生、何よりもの指針となった。それが証拠に、そこから数年で自身も大学に職を得られたし、これもそれも、あの日の「裏街道」話と、その後の先生のまめまめしい声かけのたまものと理解。感謝してもし切れない。
札幌の大学に着任し立ての頃、フェリーに自家用車のバンごと乗せて、お嬢さんたちも一緒にご家族で遊びにいらしたことがある。聞けば、当時は「毎年恒例の北海道旅行」だったとのことで、僕の中途半端な道案内など一切不用といった具合であった。我が家の妻・長男・次男も一緒に8人して小樽方面を隈なくドライブして周ったのが懐かしい。
余市の「宇宙記念館」でのこと、宇宙船に見立てた施設でクイズに勝ち抜くと「船長」の称号が授与される、というアトラクションがあった。山内家のお嬢さんたちや我が家の息子たちが嬉々としてチャレンジしたのは言うまでもない。
場内アナウンスで矢継ぎ早に流れる宇宙クイズは初め易しいが、徐々に難しくなる。僕を含めた分別ある大人たちは子どもたちに花を持たせるべく、早々に離脱したのである(その実、設問はけっこう難しかったと記憶……)が、一人得意満面で両家の子どもたちはもちろん、なみいる「宇宙少年」の強豪たちをもばったばったと蹴落として、見事、「船長」を射止めたのは他ならぬ山内先生。そのドヤ顔が脳裡に焼きついて離れない。以来、我が家では山内先生のことを尊敬を込めて「船長」と何年くらい呼び続けただろう。
考えてみれば、その、どこか大人げのなさ、一心不乱に遊びに興じられる少年の心が山内研究室の院生はもとより、周囲に集う人々を魅了してやまないのではないか。先生の稚気溢れる挑戦なくして往年の日本NPO学会の隆盛も、日本社会関係学会のロケットスタートもあり得なかった。
非営利組織研究は、1976年、あるいは77年にイエール大学に設置されたPONPO(非営利組織研究所)を嚆矢とするというひとつの有力な説があるが、ここから数えても半世紀に満たない非営利組織を対象としたこの新しい学問領域で、自身も世界のトップランナーであり続けた山内先生は、同時に、「学会」という非営利組織そのものの経営者、実践家として期待や批判のフロントラインに立ち続けてこられた。
その絶妙なバランス感覚、匙加減は、もっぱら山内先生の独壇場。前人未到の領域にミッション、組織、人財、資金調達、そしてその時々のゴールを明確に示し、嬉々として乗り出す機敏さや勘、精神力は、まさしく「学会」や「学界」という宇宙船個人主義号の船長の名に相応しかったな、とつくづく思う。
ソウルより旅立ちし山内直人船長は、やがて我らクルー一人ひとりのソウルに宿る。下手な洒落なんかではない、それは紛れもないファクトだから。山内先生、安らかにお休みください。
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