日本人に生まれたけど、日本のことを知ろうとするのは想像以上に難しい...
日本人であることを忘れてしまった
明治維新以降、徐々に日本人であることを忘れてしまった私たち...
よくよく考えると、暮らしの中での所作は江戸時代から比べて劇的に変化した。
それは日本のみならず、世界中で起きていることなんだろうけれども、江戸時代の日本が文化的にも環境的にも世界最高水準の位置にあったことから考えると残念な気持ちになる。
カタチを変え、今もなお息づくニッポンの文化
文化的には世界でも例を見ないほどの識字率だった(文盲が少なかった)こと、葛飾北斎や写楽をはじめとする制作物が 今もなお 世界で評価が高いことはそれを証明しているのではないだろうか。
からだの使い方についても、世界最高水準にあったことは忘れてはならない
現代においてはそれぞれの武術からカタチを変えているが、今でも柔道・剣道など「道」としてカタチを残しているものがある。
それらの中にはもともと「道」として変遷を重ねてきたであろう、書道や茶道・華道などもある。
今となっては江戸時代に思いを馳せ、想像を膨らませる以外にないのだが、もともと勤勉な民族だった我々の祖先は、今のように娯楽に耽ることなく日々を一生懸命生き抜いてきた。その結果が「道」として残っているのではないだろうか?
だとしたら、帯刀しなくなったこと、和式で用を足さなくなったこと以外にも我々が見落としていることはたくさんあるはずだ。
当たり前のことは遺らない
昨年、大東流合気柔術のワークショップに参加したとき、講師の方が「こんなこと昔の人は当たり前にできた。当たり前すぎて伝える(遺す)ことをしてこなかったので、今こんなことになっている」ということを言っていたのが印象に残った。
江戸時代、もちろん全ての人が茶道をし、華道をし、剣術や柔術を嗜んでいたわけではない。
それでも日本人が驚くようなからだの使い方ができていた本質とは何なのだろう...
今となっては当時の様子を想像し、実証を重ねること以外にそのことを蘇らせる方法はないが、誰しもが当たり前にしていた生活様式にこそ秘密があると僕は考えている。
移動は自転車でも車でもなく、徒歩。それもわらじ、もしくは下駄...
服装も、パンツではなく褌、ズボンではなく着物...
正座も幼い頃から当たり前に行なっていたという...
ケータイ・パソコンはなく、全ての書は筆で行われていた?
筆の持ち方、箸の持ち方、書の姿勢、食事の姿勢、農作業の姿勢...etc
そもそも電気がなかった。
今となっては当たり前の「電気」が昔を想像することをも妨げる。
一度便利を知ってしまうと、なかなか不便な暮らしに戻ることはできないのだ。
ということは「便利さ」が、当たり前を過去のものにしている一面もあるということだ。
事実、昔は自分ちの電話番号はもちろん、親族、仲のいい友達の家の電話番号は覚えていた。今では自分のケータイ番号すら覚えない人もいるというのに...
かくして、当時の当たり前は徐々に姿を消していき、残っていたとしても当時とは暮らしが変わってしまっているため若干浮いてしまったりするのかもしれない...
当たり前のことを確実に遺すというのは、新しいものに適応すること以上に、相当難しいことなのかもしれない...
次回から、いくつかの日本文化をボディワーク的視点から考察して行きます。
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