「松本雄吉と維新派の世紀 (1)」 アートの動物学(1) 『テアトロ』 2016年9月号
二十世紀への弔鐘
松本雄吉と彼が主宰した維新派が創ったのは、単にほかにはない作品の形式というだけではなかった。その活動の軌跡を含めて、形式を革新することは、包括的にあらゆるものへと向けられた探求であり、同時にマテリアルのオリジンなるものを追究する二つの運動性そのものだった。その始原と帰結は、ほかにあり得ないものであるし、今後もあり得ないであろう。ただし、その特異な表象は、誤解をおそれずに言えば、およそ半世紀弱の活動が残した作品とともに、まさに20世紀的なるものであった。
大きな歴史を描けた最後、冷戦体制が崩壊した1990年代初頭あたりまでを20世紀の特徴が顕著に現れたときとするならば、そこには極端な世紀として行き過ぎた振り子のようなぶれがあった。そして確かに、一つの時代を印象づけるいくつもの言葉を与えた。たとえば、戦争、革命、移動の世紀など。他にも映像や運動など、国民国家の全景化、もしくは第三世界など、挙げたらきりがない。それらのタームで時代を切りとったとき、20世紀はいくつもの相貌を示す。しかも世界的な規模で、どこにいても逃れようのない資本主義と国民=国家がすべてを包みこんだ。ただし、同時に九90年代の冷戦終結以後の時代は、グローバリティとローカリティの時代へと変わり、その局地戦的な様相は、いまもって新しい時代の捉えがたさを刻んでいる。
この大きな時代は芸術にも関係する。大きな物語と全世界を獲得するための運動は、芸術運動にも要請された。いや、社会を変革する運動として、芸術は更なる革命のための前衛であることに希望をもっていた。だからこそ、表現にも内容と形式の革新が求められた。その全体性とそこからのオルタナティヴの最後の可能性は、20世紀のなかでは1968年の運動になるだろう。
日本という文脈の限定があり、1960年安保世代が中心であったとしてもアンダーグラウンド演劇は、68年の反社会システムへと連なる表現と運動の嚆矢としてあった。いわゆる68年的な全共闘世代のマイノリティ運動は、先行するアンダーグラウンド演劇も内包していたし、たとえマイノリティになることを目指した代理=表象の壁を越えられなかったとしても、六八年への橋渡しとして機能した。68年の核心的な思想には、物語から遠く離れて、マイノリティの表象不可能性の提示があった。
松本雄吉は世代としては68年世代だ。あまりに図式的であるにしろ、世代論的分類法で現代の日本演劇史を書いた扇田昭彦が、松本の位置の歪さを述べている。その活動履歴の早さはアンダーグラウンド演劇世代でありながら、生まれはつかこうへいなどの第2世代にあたる。また、その特異な表現をパフォーマンスとして、どこに現代日本の演劇史に位置づけるべきなのか、と(「現代演劇史の中の維新派」『維新派大全』所収)。
少なくとも、アンダーグラウンド演劇と第二世代としてのマイノリティという表象を打ち破る視座の二つが両居できたのは、大阪という東京から離れた場と、松本雄吉のときに遅さとも映る二重の遅延によって形成されたのではないか。松本が「舞台空間創造グループ」の中心の一人として活動を開始したのは1969年だ。その代表的活動の一つに、南大阪のベ平連が中心となって組織した、大阪城公園で万国博覧会の前年に行われたハンパク運動での上演がある。ベ平連と市民運動の位置づけ自体が、当時の東京との差があることは想像できるが、ウッドストック・フェスティバルとほぼ同時期に反戦ロックコンサートを模したかのような野外での集会は、後の維新派のイメージである野外で公演をすることにも繋がるだろう。(その際に、ハンセン病患者たちが隔離された島を抜け出て、そこを訪れたことに対して、自身への影響の大きさを後年に松本は語っている。『シアターアーツ』38号参照)
また、どこまで本当かはわからないが、アルトーの残酷演劇とベケットの不条理演劇を両居させたところに彼の出立はあったと、菊川徳之助は『楽に寄す』所収の鼎談で述べている。東京ではそれこそ、68年に岸田戯曲賞を受賞した別役実もおり、ベケットの紹介はとうにすんでおり、不条理演劇自体は知られている。アルトーも同様に60年代中盤に翻訳などの紹介がなされているが、アンダーグラウンド演劇にアルトーの残酷演劇の影響を見定めることの難しさはある。三島由紀夫との論争で名を馳せた東大全共闘の芥正彦を置くことも出来るが、そのラディカリズムの追究は、明らかにアンダーグラウンド演劇と系統がわかれる。そもそも、芥もまた六八年の東大全共闘の世代である。その身体性への希求とわからなさなるものを関西の演劇シーンで始めたのが、松本であると菊川は述べるのだ。その意味でも二つのものが、世代をまたいで一つに入っている。
それが実際にどのようなものであったのかは、これ以上は舞台について語られる言葉から推測することしかできない。また、ほかにも松本雄吉の作品を論じる際には、その表現の特異性から、始原のもどきとして、いくつもの影響を考えることができる。
たとえば、美術出身という松本の位置からは、関西の前衛芸術運動であった具体美術協会。たしかに、直截的に維新派とのつながりという歴史的な文脈に置くことは、世代的にも、おそらく作品的にも難しいが、1950年代より始まる、はるかに先行するアンフォルメル運動は、パフォーマンス的な文脈として遠因となる。
また、68年の関西の美共闘的な美術運動としてパフォーマンス行っていたグループ「プレイ」(国立国際美術館展覧会「風穴 もう一つのコンセプチャリズム アジアから」参照。そこではかれらの代表作たる《現代美術の流れ》の写真が展示された)など、この関西の美術の68年世代との関係は直截的なものとしてあった。
むろん、美術だけに限らず、舞踏や空間、音楽など、その総合性と全体性は、まさに全方位的な形式の革新となった。維新派の前身である日本維新派の結成をして、化身塾を経て、維新派となるまでのあいだ、より表現としてのラディカルさの追求はあったが、全体性という志向は、維新派を待たなくてはいけない。
維新派の形式
1980年代後半以後の維新派は、「ヂャンヂャン・オペラ」と銘打たれ狭義の演劇やダンスとも違う独特の形式の作品を創る。その特色を幾つか挙げると、まず圧倒的な物量の舞台美術を矢継ぎ早に転換して、そこに一つの「街」ともいえる大規模な空間を作ることがある。その規模は劇場での上演もあるが、質量の大きさのため、維新派といえば野外劇と連想されるほどだ。しかも単にスペクタクル空間を作るではなく、奥に広がる景色を借景として使い、観客の視点からは遠近法を逃れる様に消失点を幾つも作るなど緻密な計算がある。たとえば、大阪で上演される場合ならば、都市のスペクタクル空間に、まるで架空の「オオサカ」というもう一つの街を孕ませる。また、都市空間でなく田舎であっても、祝祭性や異化する時間と空間をつくり出す。
それに伴って、役者たちの動きも通常の演技する俳優たちと違い、変拍子を多用する音楽にのせて体を運動させて、踊るために拍を取るのではなく、拍という規範を差異化するために細やかな身振りが重ねられる。何十人にも及ぶ白く塗られた役者たちが奏でるその動きの集積は、自身の身体の知覚できない部分を気付かせるということにおいて、舞踏との連関も見られる。少なくとも我々が気づかぬままになれている四拍子や三拍子のリズムに距離をもたらす。こうした要素を取り出すだけでも、維新派という集団が歴史的に見ても一つのジャンルに収まりきらない特異な位置にあるといえるだろう。
むろん、その特異性といっても喚起するイメージはある。その身振り的ダンスだけを取りだせば、ジャドソン・チャーチのミニマル・ダンスの片鱗を感じるかもしれない。また、その壮大さは「イメージの演劇」でオペラをも手がけるロバート・ウィルソンの演出、その代表作である、フィリップ・グラスのミニマル・ミュージックとイヴォンヌ・レイナーなどのミニマル・ダンスの身体性を集積させた『浜辺のアインシュタイン』を思わせることもある。ただし、そのどれとも似ているとは言い難いものだ。
舞踏を経由した身体性と、少年たちの物語。描かれる物語自体は、その特異な形式へと入れ替わるため、一見すると手が込んでいそうだが、むしろその身振りやしぐさの運動に主眼が置かれ、物語は後景に退く。無垢な少年が主人公となり、ある冒険や成長をしていく物語は、アンダーグラウンド演劇の表象と似通っている。それは、都市の中に懐胎して、こぼれ落ちた者たちだ。
ただし、ここにも68年という記号はついてまわる。何作も中上健次作品へと取り組んだことなどは、その最たるものだ。中上も数少ない日本における六八年世代の作家といっていい。「路地」をモチーフにいくつもの作品を上演したのは、都市空間へと観客の視点を没入させるよりも、都市の中をさまようフラヌールや行き場を失った者たちへと注視させようとする。アンダーグラウンド演劇のスペクタクル・ロマンと近似的ながら、決定的に一線を画している部分はそこだ。いわば、都市はどこまで行っても圧倒的にモダンであり、人々の欲望を喚起させる。土着や流浪の民の終点ではないのだ。
大規模工業都市の発展は、少なくともアジア地域にとっては二十世紀のものである。ほぼ一連のモチーフだろうが、白塗りの少年たちもその都市の渦に巻きこまれて行き場を失ったものだ。近代産業の都市群とその下層に生きるものというモチーフ、もしくは路地などの被差別へのまなざしは、六八年と六十年の端境のなかにあるといっていい。そこにいる都市の底辺を生きる者たちになるのではなく、そこにあるということはいかにして可能か。それは出立から維新派に辿りつくまでのキャリアが可能にしたことなのだろう。