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『テアトロ』、『図書新聞』などで舞台評を連載。世田谷パブリックシアター「舞台批評のクリ…

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『テアトロ』、『図書新聞』などで舞台評を連載。世田谷パブリックシアター「舞台批評のクリティック」講師。座・高円寺劇場創造アカデミー講師。

最近の記事

『ブルーシート』舞台評 (飴屋法水作・演)『テアトロ』 2016年

詩的モダニティの舞台 飴屋法水が現代美術の現場から舞台芸術の場に再び戻ってきた2000年代の中頃だろうか。彼の作る舞台芸術の作品の所々には、強くリリカルな部分が現れている。たとえば『転校生』のときに使われた、空間を常に満たし続けた時間を知らせる電話時報の音。それは、その場だけに成立する時間の瞬間性を際立たせた。『転校生』の舞台に立ったのは、実際の高校生たちだった。彼/彼女たちが卒業するまでゆるされる高校生という時間、それを端的に、しかし絶対的な限りある時間として示した。  

    • 「家が語る物語」 『パレスチナ・イヤー・ゼロ』舞台評 『テアトロ』 2018年1月号

      ノルタルジーとセンチメンタル 家が舞台において、物語を紡ぐための主要な要素となることは数多くある。そこにはいくつかの理由がある。  ひとつには家というものが持つ時間軸が基本的に長いこと。日本に限らずとも、かつての家族モデルと比べれば、現代の家族をめぐるライフスタイルは大きな違いがある。現代の都市空間における家というものの位置も多様だ。しかし、それでも多くは幼少期から大人になるまで「実家」と呼ばれる家に住む。大人になり住み慣れた家を離れて一人暮らしをしたり、新しい家族と生活を

      • 「若手たちの群像」 『昔々日本』 舞台評 (山本卓卓作・演) アートの動物学(4) 『テアトロ』2016年12月号

        ノスタルジーの輪郭線  岡田利規をはじめ2000年代に出てきた若手たち、今となっては懐かしく聞こえる人もいるが、本谷有希子、前田司郎、中野成樹、松井周、三浦大輔、江本純子などが出立した当初、その状況や作品たちにさまざまな名を与えようとみんなが苦心した時があった。「ゼロ年代」、「ポスト・平田オリザ世代」、「平田チルドレン」など、今となっては滑稽に映るが、いくつも現れては消えていった。しかし、それらの言葉で状況を捉えることは、もはや世代で括るだけであって、作品たちの共通の要素と時

        • 「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (2)」 アートの公共学(9) 『テアトロ』 2018年8月号

          『人体言語/虐殺のためのバガテル』の表象  『人体言語/虐殺のためのバガテル』の舞台の表象は、一見したところ、いつもの解体社の作品の基調に沿っている。たとえ、かつてに比べたらテクストを扱う量が増えたといえ、身体性の演劇でありパフォーマンスという基軸は変わっていないからだ。パフォーマーたちは、それぞれに自己の身体と関わる様々な行為を行っていく。ただし、それがテクストの持つ負荷とともにある。まるで、読まれていくテクストと身体が共振するかのように、身体がテクストに読まれると同時に、

        『ブルーシート』舞台評 (飴屋法水作・演)『テアトロ』 2016年

        • 「家が語る物語」 『パレスチナ・イヤー・ゼロ』舞台評 『テアトロ』 2018年1月号

        • 「若手たちの群像」 『昔々日本』 舞台評 (山本卓卓作・演) アートの動物学(4) 『テアトロ』2016年12月号

        • 「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (2)」 アートの公共学(9) 『テアトロ』 2018年8月号

          「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (1)」 アートの公共学(8) 『テアトロ』 2018年7月号

          いまセリーヌを、その文脈について  ここ数年、解体社がフランスのコラボラトゥール(対独協力者)であり、反ユダヤ主義者として糾弾を受けた作家、ルイ=フェルデナン・セリーヌのテクストを使って、もしくはセリーヌを通して作品を作ることを試みている。二年前には、セリーヌの作品をモチーフとした三部作が作られた。その時は率直のところ、いまセリーヌを取り上げることが、どの文脈によるものか、いささか唐突に映った。再びセリーヌが話題になっているとは、とても思えなかったからだ。一般的には『夜の果て

          「解体社 セリーヌと「動物」をめぐって (1)」 アートの公共学(8) 『テアトロ』 2018年7月号

          「松本雄吉と維新派の世紀(3)」 アートの動物学(6)  『テアトロ』2017年2月号

          アンダーグラウンド演劇としての維新派  およそ20本ちかくの維新派に関する映像が、大阪や東京などで上映された。そこには維新派という名前になる前、日本維新派時代の作品を撮ったフィルム映画、『足乃裏から冥王まで』なども含まれていた。上映された多くの作品は、90年代以後、現在の維新派の作風となったもので占められた。だが、「ヂャンヂャン☆オペラ」と呼ばれる形式となる以前の作品は、維新派の表現の転回を知る上で貴重なものだった。  その頃の作品たちの特徴を一言で言うなら、典型的ともいえ

          「松本雄吉と維新派の世紀(3)」 アートの動物学(6)  『テアトロ』2017年2月号

          「松本雄吉と維新派の世紀(2)」 アートの動物学(2) 『テアトロ』 2016年10月号

          零れる人々  大いなる歴史と広大なる都市空間。そこから零れたものたちとして、歴史やその空間に翻弄された無名の人々の顔を照らすこと。それは、昨今の現代演劇、とくに海外の演劇作品にも多いモチーフだろう。  たとえば、東京芸術劇場が招聘したロベール・ルパージュの『887』。ルパージュ本人のみが出演する一人舞台であり、一族や家族の話を通して、ケベックというカナダでもフランス語圏に属する場所との強い連関をもって話がなされる。そこから透けて見えるのは、ルパージュとその家族が経験した歴史

          「松本雄吉と維新派の世紀(2)」 アートの動物学(2) 『テアトロ』 2016年10月号

          「松本雄吉と維新派の世紀 (1)」 アートの動物学(1) 『テアトロ』 2016年9月号

          二十世紀への弔鐘 松本雄吉と彼が主宰した維新派が創ったのは、単にほかにはない作品の形式というだけではなかった。その活動の軌跡を含めて、形式を革新することは、包括的にあらゆるものへと向けられた探求であり、同時にマテリアルのオリジンなるものを追究する二つの運動性そのものだった。その始原と帰結は、ほかにあり得ないものであるし、今後もあり得ないであろう。ただし、その特異な表象は、誤解をおそれずに言えば、およそ半世紀弱の活動が残した作品とともに、まさに20世紀的なるものであった。  

          「松本雄吉と維新派の世紀 (1)」 アートの動物学(1) 『テアトロ』 2016年9月号

          「りっかりっか*フェスタ 2018」  アートの公共学(12) 『テアトロ』 2018年11月号

          子どものための演劇 いまや二十代ぐらいまでの世代に、子どものころに観た舞台で印象に残っているものを聞くと、だいたいはミュージカル、とくに劇団四季の名前が挙がる。小学校や中学校の団体鑑賞で劇団四季を観に行ったことはもちろん、子どもの頃に地域の市民ミュージカルを観たり、実際に参加したりと、演劇といえばミュージカルのことだと思われるようになってきた。  『ラ・ラ・ランド』のような映画のヒットも大衆化には一役かっているだろうが、とにかく一昔前のミュージカルに対してのイメージである、

          「りっかりっか*フェスタ 2018」  アートの公共学(12) 『テアトロ』 2018年11月号

          「喜劇のバリエーション」 KERA CROSS【フローズン・ビーチ】 MONO【涙目コント】 りっかりっか*フェスタより、エル・パティオ・テアトロ【ア・マノ】 『テアトロ』 劇評 2019年10月号

           よく語られることだが、悲劇には「誕生」もあれば「死」もある。では喜劇はどうか。相対的に悲劇に比べて喜劇論が薄いとはよく言われるが、古代ギリシャ喜劇に遡れば、それは風刺であり、為政者を嘲笑し、なかば命がけで批判するものであった。もちろん、悲劇がその後で様々なバリエーションをもったように、喜劇もまた多様なものだ。少なくとも古代ギリシャ喜劇とは違う質のものが生まれた。  そんなことを強く感じる二本をまずあげる。ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲『フローズン・ビーチ』を鈴木裕美が

          「喜劇のバリエーション」 KERA CROSS【フローズン・ビーチ】 MONO【涙目コント】 りっかりっか*フェスタより、エル・パティオ・テアトロ【ア・マノ】 『テアトロ』 劇評 2019年10月号

          「森の直前の夜にたたずむ人」 『森の直前の夜』舞台評 (ベルナール=マリ・コルテス/佐藤信、笛田宇一郎) 『テルプシコール通信』 2019年7,8月 No.173

           コルテスには人を感化させる力がある。いや、正確にいうと、そのエクリチュールにあるというべきだろう。バルトの『エクリチュールの零度』にあるように、エクリチュールとは、単なる言語や文体を指すものではなく、それらが囲う制度をこえるべく、自由さへの機能としてある。むろん、日本語に翻訳された場合、それは翻訳のエクリチュールとも関係する。  では、それが舞台で上演されたとき、どうなるのか。俳優がエクリチュールを語ったとしても、パロールとして消尽されたものとは言えない。それは、上演とい

          「森の直前の夜にたたずむ人」 『森の直前の夜』舞台評 (ベルナール=マリ・コルテス/佐藤信、笛田宇一郎) 『テルプシコール通信』 2019年7,8月 No.173

          「山下残の方法」 『悪霊への道』舞台評 『テアトロ』 2017年5月号

          問われる国際共同制作の作品 いわゆる国際共同制作で作品を作ることの難しさは、今までもさんざん議論されてきた。異なった文化体系で作品を作るとはなにか。国際という名前がつかなくても異なったものを集めて作品を作るだけならば、同じ文化圏でも無数にある。それは見慣れているから気づかないだけだ。たとえば、時間軸の差として能などの古典芸能と現代演劇はどうなるのか。日本的な感覚(という雑駁な言い方が許されるならば)からすれば、それは完全に異なっているものであり、むしろ実験的な作品だ。しかし、

          「山下残の方法」 『悪霊への道』舞台評 『テアトロ』 2017年5月号

          『バートルビーズ』舞台評 (坂手洋二作・演/燐光群) 「テアトロ」 2015年11月号

          抵抗の諸形態として  いまから十年ほど前だろうか。ハーマン・メルヴィルの短編『代書人バートルビー』が小さなブームとなったことがある。現代思想の文脈でジョルジョ・アガンベンの『バートルビー 偶然性について』という本が出版されたことが、その原因の主な理由の一つだった。  メルヴィルの長編『白鯨』の方は、ある意味で小説という形態の自由さを示したものだ。いわば、物語がありながらも物語のみにたよらず、半ばそこから大きく逸脱して鯨そのものを博覧的に論じ叙述するスタイルは、「物語」と「小

          『バートルビーズ』舞台評 (坂手洋二作・演/燐光群) 「テアトロ」 2015年11月号

          『スヴァールバル〜種子の方舟』 舞台評 (豊島重之/モレキュラーシアター) アオモリ/トーキョー アートのポリティクス 『テアトロ』 2015年5月

          モレキュラーシアター 『スヴァールバル〜種子の方舟』公演について 青森県立美術館で『青森 EARTH 2014』という企画展が行われた。二部構成で成り立つこの企画は、第一部が「追悼・豊島弘尚 彼方からの凝視」、第二部が「縄目の詩、石ノ柵」となっている。一部は八戸生まれの画家、豊島弘尚の作品を「頭部」「故郷」「地図」「縄文」「暗黒」という言葉によって、作歴順にまとめたものだ。二部は、吉増剛増、村上善男、松江泰治、菅谷奈緒などの複数の作品によって構成される。  その関連企画とし

          『スヴァールバル〜種子の方舟』 舞台評 (豊島重之/モレキュラーシアター) アオモリ/トーキョー アートのポリティクス 『テアトロ』 2015年5月

          「殺人狂の通俗さ」 『新・殺人狂時代』 舞台評 (鐘下辰男作・演/流山児事務所) 『テアトロ』 2015年10月

           チャップリンの名作の一つに『殺人狂時代』という作品がある。二次大戦期に撮影され、一九四七年に封切られた作品だ。物語は一人の連続殺人犯が公判にかけられる。そこで彼は自身の罪を述べると同時に、大量殺人を許容する時代そのものをも告発する。そこには、一人を殺すことは罪となるが大量に殺すと英雄になる、という時代への痛烈な批判精神があった。だから当時、二次大戦もしくは共産主義との闘いを批判するものとして、この作品への風当たりはアメリカで強く起こった。マッカーシズムの時代へと続く過渡期で

          「殺人狂の通俗さ」 『新・殺人狂時代』 舞台評 (鐘下辰男作・演/流山児事務所) 『テアトロ』 2015年10月

          「オイディプスはわれらの同時代人」 『オイディプス王』、『ガリバー旅行記』舞台評 (ルーマニア、ラドゥ・スタンカ劇場) 『テアトロ』 2016年9月号

           なぜかしら、ここ最近ギリシャ悲劇の上演がよく目にとまる。もちろん、これは統計を取ったわけではないので、たまたま上演されているギリシャ悲劇の作品が目についたというだけの話だろう。これまでだって折にふれて目立った上演はされている。しかし、ギリシャ悲劇が上演されていることを、状況と重ね合わせながら認識せざるを得なかったことも確かだ。  たとえば、東日本大震災が起こってからしばらくの間、『アンティゴネー』の上演が目についた。国家の定めた法と親族関係の規範という対立図式で『アンティ

          「オイディプスはわれらの同時代人」 『オイディプス王』、『ガリバー旅行記』舞台評 (ルーマニア、ラドゥ・スタンカ劇場) 『テアトロ』 2016年9月号