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「喜劇のバリエーション」 KERA CROSS【フローズン・ビーチ】 MONO【涙目コント】 りっかりっか*フェスタより、エル・パティオ・テアトロ【ア・マノ】 『テアトロ』 劇評 2019年10月号
よく語られることだが、悲劇には「誕生」もあれば「死」もある。では喜劇はどうか。相対的に悲劇に比べて喜劇論が薄いとはよく言われるが、古代ギリシャ喜劇に遡れば、それは風刺であり、為政者を嘲笑し、なかば命がけで批判するものであった。もちろん、悲劇がその後で様々なバリエーションをもったように、喜劇もまた多様なものだ。少なくとも古代ギリシャ喜劇とは違う質のものが生まれた。 そんなことを強く感じる二本をまずあげる。ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲『フローズン・ビーチ』を鈴木裕美が
「森の直前の夜にたたずむ人」 『森の直前の夜』舞台評 (ベルナール=マリ・コルテス/佐藤信、笛田宇一郎) 『テルプシコール通信』 2019年7,8月 No.173
コルテスには人を感化させる力がある。いや、正確にいうと、そのエクリチュールにあるというべきだろう。バルトの『エクリチュールの零度』にあるように、エクリチュールとは、単なる言語や文体を指すものではなく、それらが囲う制度をこえるべく、自由さへの機能としてある。むろん、日本語に翻訳された場合、それは翻訳のエクリチュールとも関係する。 では、それが舞台で上演されたとき、どうなるのか。俳優がエクリチュールを語ったとしても、パロールとして消尽されたものとは言えない。それは、上演とい
『スヴァールバル〜種子の方舟』 舞台評 (豊島重之/モレキュラーシアター) アオモリ/トーキョー アートのポリティクス 『テアトロ』 2015年5月
モレキュラーシアター 『スヴァールバル〜種子の方舟』公演について 青森県立美術館で『青森 EARTH 2014』という企画展が行われた。二部構成で成り立つこの企画は、第一部が「追悼・豊島弘尚 彼方からの凝視」、第二部が「縄目の詩、石ノ柵」となっている。一部は八戸生まれの画家、豊島弘尚の作品を「頭部」「故郷」「地図」「縄文」「暗黒」という言葉によって、作歴順にまとめたものだ。二部は、吉増剛増、村上善男、松江泰治、菅谷奈緒などの複数の作品によって構成される。 その関連企画とし
「オイディプスはわれらの同時代人」 『オイディプス王』、『ガリバー旅行記』舞台評 (ルーマニア、ラドゥ・スタンカ劇場) 『テアトロ』 2016年9月号
なぜかしら、ここ最近ギリシャ悲劇の上演がよく目にとまる。もちろん、これは統計を取ったわけではないので、たまたま上演されているギリシャ悲劇の作品が目についたというだけの話だろう。これまでだって折にふれて目立った上演はされている。しかし、ギリシャ悲劇が上演されていることを、状況と重ね合わせながら認識せざるを得なかったことも確かだ。 たとえば、東日本大震災が起こってからしばらくの間、『アンティゴネー』の上演が目についた。国家の定めた法と親族関係の規範という対立図式で『アンティ