見出し画像

第13章 現代「リベラリズム」の諸潮流

まぁ、そう言うわけで、どう言う時代かって言うと、もう私たちの今生きてる時代なわけですが、それでも決定的な社会思想の転換点っていうのが、2つあったわけです。まず「冷戦」体制が確立されるわけですよ。東側と西側っていうね。あれですよ。そしてもうひとつの転換点っていうのがその冷戦体制の崩壊なわけです。


 でね、象徴的な出来事っていうと、ベルリンの壁が打ち壊されたわけですよ。フランス革命の200年後の1989年に。で、こうワタワタッと、ロシア革命以来続いた70年くらいの歴史を持つ社会主義諸国があっという間に、無くなっていっちゃうわけです。でもね、ソ連最後の共産党書記長・大統領のゴルバチョフは気づいてたわけですよ。「なんか社会主義計画経済とか言ってもも〜うまくいかないし、IT革命とか起きちゃって、もう大変なんすから」って初代・林家三平ですよ。で、ゆうべ寝ないで考えた「ペレストロイカとかグラスノスチ」これも三平師匠ね。とかやって自由化・民主化をしようとしたんです。でもね、ゴルビーのやったことは、政治的民主化と情報公開が主なものだったわけです。だから〜逆に、民族問題とか指導部の分裂とかを招いちゃうわけです。

でもね、中国の鄧小平って人は、この逆をやって大成功するわけです。中国はご存知の通り一党独裁のままで行くんですけど、ソ連型の計画経済はやめて、「社会主義市場経済」っていうのをやるわけですよ。まぁ、すごい経済大国になるわけですが、政治的な民主化・自由化はやらないで経済の発展をした弊害で、資本主義以上の経済格差を生み出してしまったわけです。まぁ、アジア・アフリカ・中東の社会主義国もまぁ、自由と民主主義を求めてなんだかんだあって大半の国が議会制民主主義を基本とする政治体制に生まれかわったわけです。で、逆にまた社会主義に戻ろうって国はほとんど考えられない状況なわけです。残されたのは中国・北朝鮮・キューバ・ベトナム・ラオスなどもう、少数なのです。絶滅危惧種ですね。街で見かけたら保護しなきゃいけない。今、そういう感じです。はい。

で、これを社会思想の問題として、考えるときどう考えたら良いか。っていうとですね、シュンペーターって人がこう言っています。「資本主義はその「失敗」によってではなく、その成功によって社会主義に移行せざるおえない」と。シュンペーターさんはグーグーガンモに出てくる、はんぺーたくんとは全く関係ありません。マルクスやエンゲルスの言ったような「困窮する労働者階級による暴力革命」じゃなくて、計画的・高度化した資本主義からの平和的移行として実現されるんだと。まぁでも心配はしてるんですよ。「ねえねえ、シュんペータくん。社会主義に平和的に移行されたとして、ソ連のような一党独裁・中央集権的なシステムによって政治・経済の一元的な支配が完成した時に、資本主義の遺産、民主主義が維持できるかなぁ。」ってガンモはいうわけですよ。そうするとシュんペータくんは「社会主義的な枠組みの中で、国家権力が自由と民主主義に反した時に、だれがそれをどうやって止めるのかっていうのが一番問題だって。」言うわけですよ。

で、社会主義体制崩壊の歴史的意味を考える時に参考になるのが、フランシス・フクヤマさんの『歴史の終わり』とサミュエル・ジャクソンじゃなくて・ハンチントンの『文明の衝突』な訳です。

フランシス・フクヤマ(・マサハル)の『歴史の終わり』(1992)っていうのは、ソ連とか東欧の崩壊の原因は「道徳的欠陥にある」っていうものなんですね。ヘーゲルの『精神現象学』(1996)の中の「主人と奴隷の弁証法」っていうのの中で、「対等な人間同士は、相手を屈服させるまで戦うけど、殺しはしない」っていうんです。自分の強さとか価値をみとめさせる相手がいないと勝った意味が無いって言うわけです。で、勝った人は怠けてしまい、負けた人は頑張って勝った人に並ぶことができる。この相互承認の繰り返しが、社会的結合の絆であり、民主主義と資本主義はこれを実現するのにぴったりだと言うのです。ブレジネフ時代のソ連はこの相互承認の代わりに物質的な利益を与えて、道徳的な誇りを押さえ込んだわけですが、それもお金があってのことであってお金が尽きれば、道徳の欠如も露呈すると言うわけです。だから、民主主義、資本主義やっておしまい。って言う。一件落着、水戸黄門的なあれですよ。

で、次。抜作先生の怪盗ハンティントンは、まぁ、そういんじゃなくて、冷戦中は覆い隠されていた、キリスト教の西欧文明・儒教の中国文明・イスラーム文明と言う3つの巨大な文明があって、相容れない部分が冷戦の終わりとともに見えてきてそして、「現実の衝突として現れるんだ!そして、これからも続く」と言う怪獣毎週攻めてくると言う「ウルトラマン的」展開なわけですよ。今聞くと、そーだよね。みたいな気分になるけど、この本1996年の本だから。ヒット曲で言うと相川七瀬の「夢見る少女じゃいられない」ってね、このタイトル聞くと「ひょっとしてハンティントンの影響受けてる?」って今思った。


ま、二人とも社会主義は一先ずダメだって言うわけだけど、ほんとにそうなの?って言うことを考えるのが、この章の問題な訳ですよ。
 
 「モグタンここはどこ?」
 「1945年7月のイギリスだよ。」
 って言うわけで、総選挙があったんです。でね、自由党のチャーチル首相負けちゃうんです。で、労働党のアトリーさんが首相になるんです。で労働党はね社会主義なんです。基幹産業の国有化による「完全雇用」、ゆりかごから墓場までの「社会保障」の二本立て。で、ケインズとかべヴァリッジっていう人たちは自由党員として、労働党の政策の実現に関与するわけです。だから、労働党の「社会民主主義」と自由党的な「新しい自由主義」のハイブリッドとしてイギリスの福祉国家政策は実現されたわけです。
 で、これ以降ソ連・東欧型の「共産主義」「集産主義」と西欧型の「社会民主主義」としての「社会主義」とを分つのは、基幹産業の国有化とか、累進所得税による所得の再分配とか、そう言うのをひっくるめた、福祉国家の理念じゃ無いわけです。(じゃあ何か?って言うとですね、それは、マルクス・レーニン主義の言う「議会制民主主義は資本家階級の代弁基幹であって、労働者階級のための真の民主主義では無い」という立場を受け入れるかどうかと言うことになったわけです。)
 で、イギリスをはじめ、戦後の先進資本主義の国は、「反共」って言いながら、「福祉国家」とか「大きな政府」って言う社会民主主義的な政策を推進したんです。でもね、「大きな政府」って言うのはすげーお金かかるんす。だから財政赤字が深刻になっちゃう。そこにイギリスではサッチャーさんて言う人が「社会主義」を解体しよう!って言い出します。でアメリカはアメリカで、レーガンさんって言う人がソ連を「悪の帝国」ってスターウォーズみたいなことを言い出します。で、ケインズ経済学の衰退と新自由主義の復活が背景としてはあるんですけど。

 ソ連・東欧の崩壊と新自由主義との話があるんですが、結論「関係ない」って言うことで、「小さな政府」「大きな政府」って言う話もまぁ関係ないって言う話で。フリードマンっていう人は新自由主義の主張が先進国の政府を小さくして、財政を健全化させると期待していたようだが、現実はそうなっていないわけです。
 あと、ハイエクの「左右の全体主義問題」については「個人主義的な伝統を踏まえて資本主義諸国の「大きな政府」が、個人の自由を圧迫する「全体主義」に堕する危険性がある」と言うことを言ってるわけです。ってシュンペーターも似たようなこと言ってたよね。

 で、第二次大戦後のリベラリズムの主要な源流には、個人主義を根幹とする「古典的自由主義」、資本主義の歴史的帰結、左右の全体主義の起源である「新しい自由主義」、マルクス・レーニン主義との対決の上に展開された「社会民主主義」がある。

 まっ。そんなわけで、ハーバーマスとロールズの紹介です。ハーバーマスとロールズの共通点として挙げられるものが2つあります。一つは、戦後の冷戦構造を前提に考えて、アメリカと西ドイツという母国の基本原理を受け入れた上で、それらが抱えた社会構造の矛盾と正面から取り組んだという点です。まぁ、社会民主主義を思想的に正当化しながら、それが生み出す社会的・経済的不平等とか民主主義の危機をどう乗り越えるかを考えていたということです。もう一つは、17・18性期の啓蒙思想をそれぞれの重要な思想的根拠としている点です。
 ハーバーマスは「市民的公共性」の理論を展開しました。18世紀の啓蒙思想の時代に、あった貴族主義的公的政治の世界への対抗軸としてあったといわれる中産層が形成する「市民的公共圏」があったが、政治的民主主義が進展する中で、国家の諸活動がこれを吸収してしまい、戦後の福祉国家の成立によって完全に消滅してしまったと言っています。『コミュニケーション的行為の理論』では同じ問題を取り扱って、カント的な「コミュニケーション的理性」を再評価して、これを20世紀らしく、民主的な「市民的公共性」の基礎として再建すべきであると言いました。何言ってるかよくわかりませんが、ハーバーマスは、お金と行政権力を戦う相手として明示しています。それは、国家が資本主義の行き過ぎた資本主義をコントロールするべきだという社会民主主義的な立場を支持しているということを示すと同時に、その国家が官僚制によって「市民社会」の抑圧装置として作動する危険性を意識していることを意味しています。で、それに対抗するには、「市民的公共性」を活発化させるための民主主義運動が不可欠で、それがなくては、資本主義という現実の中で、自由と正義が実現されないと言っています。

はい。次はロールズです。『正義論』ではロック、ルソー、カントの「社会契約説」に立ち返り「公正としての正義」の思想を復活させようとしました。ロールズの敵は最大多数の最大幸福をフラッグシップとする「古典的功利主義」でした。で、何が気に食わないかというと、古典的功利主義が個人間とか階級間の社会的・経済的格差があることを前提としていて、それを後からちょんちょんと調整して、事後的に是正しているに過ぎないという点が気に入らないわけです。これに対してロールズは、古典的社会契約説の立場から、原初状態を理論的に想定して、そこでみんながまぁ選ぶであろう社会を真に公正な社会として構想しました。不平等とか不公平が初めからあり得ない社会の仕組みを提示しようとしたわけです。その根本的な原理が「正義の2原理」な訳です。まぁ第一原理は自由に関するもので、「基本的な自由は全ての人々に平等に分配されなければならない」というもの。第2原理は平等に関するもので、社会的・経済的不平等は「最も不遇な人々の最大の便益に資するように」と「公正な機械均等の条件のもと全員に開かれている職位と地位に付随するように」編成されなければならないと言っています。
 で、「正義の2原理」が実現する理想の社会とはどのようなものかというと、資本主義とか社会主義とか、そういうものを一つに絞ることはできないけれど、とりあえず私有財産の平等な分配に基づく自由な競争市場を前提にしている話をすすめています。で、この「正義の2原理」を実現させるためには、政府の適切な活動が必要で「競争的な価格システムの維持」「無理のない完全雇用」「市場原理が供給できない社会的ニーズの供給」「いろんな租税政策による財産の広範な分散」が必要だと言っています。
 ロールズは、古典的自由主義は第一原理(自由原理)を優先し過ぎて、第2原理である格差原理と機械均等原理を蔑ろにしていると批判します。自由競争によって基本的な自由が得られなかった人が大勢現れると、結果として自由原理自体を崩壊させてしまうというわけです。
 はいまとめ、ロールズのいう公正な社会とは、「自由原理に基づく自由競争によって効率的に富の増大が図られつつ、適切な政府の諸制度で「格差原理」と「機会均等原理」が実現する社会」というわけです。

まとめのまとめですね。

ロールズの考える「福祉国家」や「大きな政府」のあり方っていうのは「自由と公正と効率の統一」という点でケインズ思想と親和的なんですが、ケインズが文字通りの社会主義を軽視したのとは対照的に、社会主義に潜在的な可能性を感じていたようにも見ることができます。その顕著な例が、生まれながらの才能の不平等と、その帰結としての財産の不平等について、公正な競争の末の結果であっても、個人はその生じた差を独り占めにするのは良くないと言っています。
これに対して、ロバートノージックが代表するリバタリアンは、ロールズの議論と抽象性を、自由な個人の尊厳という立場から批判し、マッキンタイアー、ウォルツァー、サンデルが代表するコミュニタリアンは共同体に生まれ生きる個人という視点から批判しました。

もうメジャーリーガ揃いです。

要は、公的サービスの民営化とか市場化という新自由主義の手法も取り入れるとしても、豊で成熟した一人ひとりの市民の多様性を守り保障する社会を維持するには何らかの形態における「福祉国家」や「大きな政府」を避けることはできないというのが現代リベラリズの諸潮流が示す共通の認識であり。問題なのは、「福祉国家」が体現する公共性の根拠なわけで、ハイエクのいうように「政府活動の目的ではなく、その方法」が大事だってわけです。

で、現代のリベラリズムは正当な公共性の実現機関としての国家と政府のありかた、そしてその方法を探ってきたわけです。

で、こういうことを私たちが学ぶことで、これからの社会の自由と平等、公正と効率の最大化の両立の可能性を追求せにゃならん、っていうのが課題なわけです。

いいなと思ったら応援しよう!