上野寛永寺について
徳川家康(天文11年1542年-元和2年1616年)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643年)が徳川家光(慶長9年1604年-慶安4年1651年)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門(positioned the north-east direction, an lucky direction or the demon gate of Edo city )にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそうであったように、江戸城への災いを封ずる(means to seal the demon gate)意味があったと考えられる。江戸時代には徳川将軍の菩提寺(shogunate family temple)として増上寺と並ぶ権勢を誇った(exercised influence;wielded power)が、1868年3月寛永寺に拠った彰義隊が東征軍の攻撃を受けたとき堂塔の多くを焼失。さらに第二次大戦でも空襲の被害を受けた。明治時代に入って国立博物館西北端に寺域を移されたとき川越喜多院の本地堂を移築して根本中堂とした。博物館裏に厳有院(家綱)霊廟勅額門が残る。
公園北側へのアクセス:JR鶯谷駅南口から徒歩7分。
しかし公園の南側にも遺構は多く、上野公園を袴越から入ると、まず清水観音堂(寛永16年1639年)。近く精養軒手前に鐘楼(belfry or bell tower)。そして上野大仏はお顔だけが残されて祀られている(露座without a roof or rooflessの大仏Big Buddhaがあったが、大正12年1923年の関東大震災のときに頭部が落ち、復興がかなわないまま胴体は第二次大戦時に供出。顔面のレリーフだけが大仏山に残されている。)。さらに五重塔が、動物園のなかにある。なお五重塔は、下に掲げた写真のように上野東照宮からも眺めることができる。
→ 上野東照宮について
上野駅公園口を超えて、国立博物館を過ぎたところまで歩くと旧本坊表門(江戸初期)がある。寛永寺は広大なその寺域を上野公園に譲った形だが、公園の南側のあちこちにも、そこに伽藍(temple building)があったことを示す痕跡をとどめている。寛永寺を考えるとき、寛永寺のあるこの上野の山とはそもそもどういう場所だったのかを考える必要がある。
芭蕉(寛永21年1644年-元禄7年1694年)が「花の雲 鐘は上野か浅草か」と詠んだのは貞亨4年1687年。すでに上野は花見で有名な場所だった。なおこの歌の解釈はいろいろあるが、芭蕉はこのとき病で庵にこもっており、時は暮れ六つ。したがって、庵から空を流れる雲を見て、それを花に見立てて、上野、浅草の桜の名所を思い起こしたとするのが自然ではないだろうか(この俳句についてロンドン大学のスクリーチは、上野寛永寺との上下関係に対して浅草寺が争っていたことを詠んでいるとする。確かにその争いに絡んで、浅草寺の貫主忠運が綱吉の不興を買い浅草寺を追われたのは貞亨2年1685年のこと。従ってその可能性は高い。タイモン・スクリーチ 森下正昭訳『江戸の大普請』講談社学術文庫平成29年2017年 pp.115-124)。
一茶の時代は芭蕉の時代からほぼ百年後。小林一茶(宝暦13年1763年-文政11年1828年)の俳句データーベースから、上野を詠んだものを探すと、実に沢山ある。選択して以下に示す。これらは、上野の山が庶民の行楽地になり、賑わっていたことの証拠になる。
捨人や上野歩行(あるい)てとし忘れ
独り身や上野歩行てとし忘れ 文化11年1814年
夕凉や草臥(くたびれ)に出る上野山 文化12年1815年
鶯(うぐいす)も人ずれて鳴く上野哉 文政4年1821年
上野の山には「増上寺 空に知られた雲ばかり」と歌われた芝増上寺とは異なる庶民性(commonality; common touch or popular touch)があったように思える。
→ 芝増上寺について
明治に入り公園化した上野の山はどう変わったのだろうか。これをみるのに、正岡子規(慶應3年1867年-明治35年1902年)がその上野の風景について繰り返し詠んでいるのを利用しよう。これも大変多い。庶民性、大衆的人気という点で、むしろ継続性、連続性で捉えることができるのではないか。
(上野・上野の山など)
桜狩上野王子は山つゝ”き 明治26年1896年春
銭湯で上野の花の噂かな 明治28年1895年春
寝てきけば上野は花の騒ぎ哉 明治29年1896年春
両国の花火見て居る上野哉 明治29年1896年秋
野分して上野の鳶の庭に来る 明治29年1996年秋
菊枯れて上野の山は静かなり 明治29年1896年冬
上野山余花を尋ねて吟行す 明治31年1898年夏
銅像に集まる人や花の山 明治32年1899年春
秋立つとひとり上野の森に對す
桜ばかり女ばかりの上野かな
涼しさや上野の森も庭の中
月見るや上野は江戸の比叡山
松杉や花の上野の後側 明治34年1901年春
五月雨や上野の山も見あきたり 明治34年1901年夏
(清水堂)
涼しさや梅も櫻も法の風 明治27年1894年夏
(弁天堂・不忍池)
蓮枯て夕栄うつる湖水かな 明治26年1893年冬
蓮枯て辨天堂の破風赤し 明治26年1893年冬
畫中の堂静かなり蓮の花 明治27年1894年夏
不忍の池をめぐりて夜寒かな 明治28年1895年秋
枯柳三味線の音更けにけり 明治28年1895年冬
ふゆ枯や鐘にうつる雲の影 明治28年1895年冬
辨天をとりまく柳櫻かな 明治29年1896年春
(鐘楼・上野の鐘)
花の山鐘楼ばかりぞ残りける 明治29年1896年春
寄席はねて上野の鐘の夜長哉 明治29年1896年春
障子明けよ上野の雪を一目見ん 明治29年1896年冬
鬚剃るや上野の鐘の霞む日に 明治35年1902年春
石川啄木(明治19年1886年-明治45年1912年)。明治41年1908年、北海道釧路での生活を切り上げた啄木は、函館を経て、東京の金田一京介(明治15年1882年-昭和46年1971年)を頼って上京する。金田一は4月に海城の国語教師になったばかりだが、啄木を支援する。やがて10月。教師資格の問題から海城を辞した金田一は三省堂に就職している。こうした折、釧路からはるばる小奴が上京してきた(12月)。啄木は釧路に奥さんを残している身でなお就職も決まらずカネもない。「散歩しようと言って二人は出た。三丁目から上野まで、不忍池の畔(あぜ)を手を取り合って歩いた。ステーション前から電車、浅草に行って蕎麦屋に上がった。二本の銚子に予はスッカリ、釧路を去って以来初めての位、酔った。」(『啄木日記』より)
夏目漱石(慶應3年1867年-大正5年1916年)の『こころ』(大正3年1914年)において、上野は以下のように桜の季節に、若い男女が歩く場所として、描かれている。
「ただ一つ私の記憶に残っていることがある。或る時花時分に私は先生と一緒に上野に行った。そうしてそこで美しい一対の男女を見た。彼らは睦まじそうに寄り添って花の下を歩いていた。場所が場所なので、花よりもそちらを向いて目を峙(そば)だてている人が沢山あった。」
なお森鴎外(文久2年1862年-大正11年1922年)の『雁』(執筆明治44年1911年から大正2年1913年)でも、上野の山は男性が一人歩き回る散策コースとして扱われている。
「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘(からたち)寺の角を曲がって帰る。」(明治44年1911年執筆)
高浜虚子(明治7年1874年ー昭和34年1959年)も上野について繰り返し詠んでいる。不思議であるのは、言葉が新しくなることだ。
かわかわと大きくゆるく寒鴉(かんがらす)(五百句より 昭和10年1935年12月12日 『虚子五句集 上』岩波文庫1996年p.100)
たゝみ来る浮葉の波のたえまなく(五百五十句より 昭和12年1937年5月21日 同前書p.134)
名をへくそかづらとぞいふ花盛り(五百五十句より 昭和15年1940年9月29日 同前書p.208)
遠足も今は駆足(かけあし)池の端(六百句より 昭和17年1942年5月1日同前書p.256)
枯蓮の池に横たふ暮色かな(六百句より 昭和17年1942年12月10日 同前書p.271)
手にうけて開け見て落花なかりけり(六百句より 昭和18年1943年4月21日 同前書p.282)
今、上野公園を朝歩いていてふと考えるのは、すばらしい緑陰が生まれていることだ。その素晴らしさに比べると、明治以来の上野に作られた博物館や美術館、コンサートホール、動物園や野球場など人が作ったすべての施設は下品で醜いものだと思わないではない。可能であればこれ以上、自然を壊さず、少しずつ上野を自然に返すべきではないだろうか(compared to the comfortability in the green shade of trees, those human-made facilities such as various museums or music halls are unnessary and ugly enough to be disappeared)。
公園南側へのアクセス:JR上野駅公園口から徒歩10分。
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