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蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述   實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31  esp.11-14,  26-27  教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。

p.11   北京大学の名称は民国元年(1912年 訳者挿入)に始まる。民国元年以前は京師大学堂という名であった。師範舘,仕學館を含み、譯學舘もまたその一つであった。私は民国元年前六年(1905年 訳者挿入)譯學舘教員を務め、国文と西洋史とを講じた。これが私が北京大学に勤めた最初である。
 民国元年(1912年)、私は教育部長となり、大学についていくつかの点を特別に注意した。一、大学に法,商などの科を設けるものは必ず文科をもうけること。医、農、工などの科を設けるものは必ず理科をもうけること。二、大学は、教授、在学の卒業生と水準の高い学生のための研究機関として大学院(すなわち現在の研究院)を設置すべきである。三、国立大学として北京大学のほか五ケ所に国立大学を措置する。南京、漢口、四川、広州などに各1ケ所大学を措置する(この時、将来、各省が等しく大学を行える能力を持つとは思い至らなかった)。四、各省の高等学堂は、大学の予備科として日本の制度を真似たものだが、程度が様々で、大学入学時に困難が生じている。(そこで)高等学堂は廃止し、大学内に予科を設ける。(この点はのちに胡適先生などから非難をうけたところで、というのは各省はすでに高等学堂は設けておらず、(各省には)レベルの高い学者を集めた機関(薈萃p12   較高學者的機關)がない、文化の遅れは避けがたいが、もし各省が競って大学を設けるなら心配がなくなると。)
 この年、政府は 嚴幼陵(ヤン・ヨウリン)君を北京大学校長に任命した。2年後、嚴君は辞任し、馬相伯(マー・シアンボー)君が改めて任じられた。間もなく馬君もまた辞任し、何錫侯(ホー・シーホウ)君が改めて任ぜられた。間もなくまた辞任し工科学長の胡次珊(フー・ツーシャン)君が代理となった。民国五年(1916年)冬、私はフランスに在って、教育部の電報を受けた、急ぎ帰国し北大校長に就任せられたいとのことであった。私はもどりまず上海に到着した。友人の中は就職する必要なしと道理を説く(勸)ものがすこぶる多かった。北大は腐敗し過ぎており、もし整頓できなければ自身の名前に傷がつく(有礙)だけだと。これはもちろん私の意思を尊重して出された意見だ。しかしまた以下の少数の意見があった。北大の腐敗は知られており、赴いて整頓するべきで失敗も計算に入っている(失敗也算盡心了)と。これはまた人の徳を愛する言い方で、結局この後ろの言い方に説得されて、私は北京に向かったのである。
 私は北京につくと、まず医学専門学校長の湯爾和(タン・エルヘ)君を訪ね、北大の情況(情形)を尋ねた。「文科予科の情況は沈伊默(シェン・イーモウ)君に、理工科の情況は夏浮筠(シア・フーチュン)君に聞けばいい。」湯君はまた言った。「文科学長は未定だが、陳仲甫(チェン・チョンフ)君に頼めばいい。陳君は現在改名して独秀(ドシウ と名乗り)、雑誌『新青年』の編集長であり、間違いなく(確可)青年の指導者になる人物だ。(そして)『新青年』10冊あまりを私に示した。私は陳君に対して、もともと忘れがたい印象をもっていた。というのは、私が劉申叔君と『警鐘日報』に勤務していたとき、劉君が私に言った。”蕪湖で発行されている口語体の新聞があり、発起人のすべてが生活の困苦と危険から逃げ去った中、陳仲甫一人で数か月維持したとのことです。”今、湯君の話を聞き、また「新青年」を広げて読んで、彼を招く決意をした。湯君が陳君がたまたま門外の一旅館に滞在することを知り、私はすぐに訪ねて確定させた。すなわち陳君を北大文科学長。しかし夏君を理科学長に再任(原任)、沈君はまた教授に再任。旧例通り(一仍舊貫)。北大のやり方の整頓をまずは見て、相談決定し順序立てて(次第)行う。
p.13   我々がまず改革すべきなのは、学生の考え方(觀念)である。私は譯學舘にいたときに北京(大学)学生の習慣を知った。かれらは普段は学問には何の関心もない。年限が満ちたあとは一枚の卒業証書が得られる。教員はまた自ら修養の必要がない。最初の講義の印刷ができると、講義ごとに学生に分け与え、講壇上から読み上げるのである。学生は関心を持てず、眠気を催し、あるいは雑誌をよみふける。講義が終わると、持ち帰ったテキストを書架の上に積み上げる。学期末になり、学年あるいは卒業の試験になると、教員は真面目になり、学生は懸命に連夜講義録を読む。(しかし)試験対策が終わると、講義録を再び広げることは永遠にないのである。もし教員が少し融通がきくと、学生は前もって出題題目、あるいは少なくとも出題範囲を示すことを求める。教員は学生に恨まれたり自身の体面を傷つけないために、しばしば出題題目や範囲を学生に告知する。彼らは修養の習慣がないが、(こうした行為で学生の人気という 訳者挿入)一種の保障を得るのである。とくに北京大学の学生は、京師大学堂”老爺”式学生が好き勝手にふるまってきた(擅繼下來)(北京大学が始められた時、学生はすべて京官、役人で、(したがって習慣に従い)学生は老爺とよばれ、監督あるいは教員は、中堂あるいは大人と呼ばれた。)彼らの目的は単に卒業にあるのではなく、特に卒業後の進路にあった。そこで学術研究を専門に行う教員は、かれらは歓迎できなかった。もしも点呼のとき少し真面目である、試験のとき少し厳格であると、彼らは彼に反対だと話始め、授業放棄も辞さなかった。(しかし)政府で地位のある人が兼任で教えに来ると、時々休むとしても、彼らは大歓迎した。というのは卒業後、先生を頼れるからである。このような科挙時代の遺風は、学問を求める学生の邪魔になる。それゆえ私は大学に来た時の最初の演説で、「大学学生は、学術を研究することが天職とすべきであり、大学を官吏や金儲けへの階段とするのは間違っている」と説明した。これらの(悪い)習慣の打破は、招聘された積学と、熱心な教員によりp.14    着手された。(中略)

p.26   (1919年5月4日の五四運動について)私は学生運動に対して
p.27  もともと一種の意見を有していた。学生は学校の中においては、学を求めることを最大の目的とすべきであり、なんらの政治的組織ももつべきではない。20歳以上で、政治に関心があるものは、個人の資格で政府団体に参加してよいが、学校に連絡する(牽涉)必要はない。それゆえ民国七年(1918年 訳者挿入)の夏の間、北京の各校の学生は、外交問題でデモ隊を組織し、総統府に請願に向かった。この北京大学生が出発するとき、私は止めたが彼らは参加せねばならないとした。そこで私は引責辞職するとしたが慰留を受けて辞職をとどまった。(しかし)八年(1919年)五月四日、学生が再び「パリ講和条約」署名拒否と、親日派の曹、陸、章の罷免を求めデモ隊を組織したとき、私はもはや止めに行かなかった。かれらは憤激のあまり、曹汝霖の家を焼き、章宗祥に乱暴した。警察が逮捕した学生は数十人に及び、(逮捕者は北京の)各校に及んだが北大の学生が多数を占めた。わたしと各専門学校の校長は警察に行き釈放を求めた。しかし拘束され保釈されると、学生はもう一度集まり今一度の戦う決心(再接再厲的決心)。他方政府も後には引かない態度(不做不休的態度)。その途中で私を罷免して馬其昶君に代えるとの情報がながされた。私はそれが学生の政府への反発を増すことを恐れた(私自身が保身のため学生運動を操っていると疑われることも)。そこで一方で引責辞職の届け出を政府に出し、一方では秘密に北京を離れることにした。5月9日のことである。
 学生は毎日隊に分かれて演説をし、政府は逐次逮捕したが、囚人の数はあまりに多く、学生は北京大学の第三院に収監された。北京の学生が受けたこのような圧迫は、全国の学生のストに発展し,各大都会工商界の同情と公憤につながり、ストライキ、市場停止による同様の要求となった。政府は劣勢となり、逮捕者を釈放し、講和条約不署名を決定し、曹、陸、章は罷免された。五四運動の目的は完全に達せられた。
(以下略)

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