アクティブ・ラーニングは必ずしもアクティブである必要はない?
年末年始の読書第二弾はこれ。
たぶん,どっちかというと初等教育を念頭におきながら,書かれた本。ですが,一応教育者の端くれとして,同年代の教育の専門家がどのようなことを考えているのか関心があったので,買ってみたしだいです。
著者の苫野先生によると,「公教育の本質は,すべての子どもが「自由」に,つまり「生きたいように生きられる」ための”力”を育むことにあります」(p.85)この観点から,同書では,公教育を画一的なシステム,画一的なプロセスの中で実践することの危うさに警鐘を鳴らしている。
したがって,目下注目されているアクティブ・ラーニングすらも,協同的な学びとして捉えてしまうと(実際にそう捉えられる傾向があると著者は指摘)本末転倒。「一斉アクティブ・ラーニングが主流になると,もしかしたら先生の思う通りの”アクティブさ”を発揮してくれる生徒が”いい生徒”になるかもしれません」(p.36)。
苫野先生はこの考えから,ご自身の大学での授業では,まず必要な知識をたっぷり提供し,その中で一人一人に課題を考えさせ,個々人が設定した課題を達成すれば「優」をつけるようにされているようだ。
これも,先ほどの山口さんの本同様,喉の奥の魚の骨を取ってくれた感じです。
ずっと,いくつかのスタイルでアクティブ・ラーニングなるものに取り組みながら,それらに対する学生の声を聴いて気になっていたことだったからです。
学生同士の「協同」を志向すると,グループ内でアリとキリギリスが出てくる。
学生と教員の対話・発言という意味での「協同」を志向すると,学生の個性が評価対象にもなりかねない。
そんなこんなで行きついた私の現時点のスタイルが,以前に投稿したミニ小論文のスタイルだった。
なので,この苫野先生の著書は,今自分がやっていることを後押ししてくれたような感じがして,少し安心できました。
ちなみにこの先生,もう一つ良いことも言ってます。
「大学教員が,”現場”を知らずに偉そうなことを言うな」と言われることがあるが,「教育の”現場”と一口で言っても,その現場は無数にある……。……学校現場だけでなく,教育行政の現場もあれば教育研究の現場もあれば,故曽田江の現場もあれば社会教育の現場もあるのです。だから大事なことは,さまざまな”現場”の知見を,お互いに持ち寄り,交換し,活かし合うことです。「現場を知らずに……」という言い方は,その機会を自ら捨て去ってしまうことだ」(p.8)
これ,社会科学全般に言えることじゃなかろうか。もちろん,私は管理会計しかやったことないけど。
その現場の常識や慣習を所与のものとせず,ブレイクスルーを追求するためには,いろんな現場の視点が必要。
産学連携ってのも,最初からお題を具体的に決め打ちするのではなくて,そういう緩い連携でできたほうが逆に良いのかもしれない。
ということで,私も自分の立場なりに何か情報発信していかねばと思った次第です。
こういうことを考えさせてくれた苫野先生,有難うございました。