ホモ・デウス所感

(2018年11月にCNETにポストした記事の再掲です)
今話題になっている、ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を読みました。

歴史観

 この本は宗教の歴史に関する本です。宗教といっても、キリスト教や仏教のような個別の宗教ではなく、むしろ人類の持つ世界観や、「生きる意味」というものに近いでしょう。農耕が発明される前、人類は狩猟や木の実や貝の採集で命をつないでいました。食べ物があるときには感謝し、ないときには飢え、時には他の大型動物から襲われることもあったでしょう。このとき人類は自然の中の特別な存在ではなく、他の動物や植物と対等で、その一部と感じていたことでしょう。その世界観は自然界のすべてに命を感じるアニミズムであったはずです。

 農耕の発明によって人々は、穀物の成長という自然の一部をコントロールし、安定した食料を手に入れることができるようになりました。また同時に、家畜を飼うようになりました。人間と家畜の間には、明確な上下関係があります。人間は家畜に餌をやり飼育する代わりに、いつでも家畜を屠殺することができます。こうなると、人間は自然界において特別な存在にならなければなりません。著者のハラリは、人類はこのために「全能の神が人間を特別な存在として創造した」という虚構を作ったのだと言います。農耕や畜産ができても、この当時の人々は気象や天文を予測したり、疫病をコントロールすることはできません。このため、人々は神に祈っていたのです。すなわち、この時代の人々の世界観は「神がこの世界を司り、人間は神の意志に従う特別な存在である」というものだったのでしょう。

 この「神の世界観」を覆したのが科学です。ガリレオの望遠鏡とニュートンの運動方程式は天文の正確な予測を可能にしました。ダーウィンの進化論によって、人間は神が特別に創造した存在ではなく、他の生物から進化したものだということがわかりました。顕微鏡と微生物の発見によって、疫病の原因とその対処方法がわかってきました。こうなってくると、「神がこの世界を司り、人間は神の意志に従う特別な存在である」という世界観はその合理性を失います。その代わりに、西ヨーロッパの啓蒙思想とともに現れてきたのが「人は自我を持ち、合理的に考えることができるから特別な存在である」という考え方であり、これを著者はヒューマニズム(人間至上主義)と呼んでいます。ヒューマニズムにおける価値観すなわち「生きる意味」は個人が幸せであればよい、というものです。自由、人権などの価値観は、このヒューマニズムで初めて一般化したもので、以前のアニミズムの時代、神の時代にはなかったものです。

 さて、今はヒューマニズムの時代ですが、また新たな科学技術、すなわち認知科学と情報技術によって価値観の大きな転換が起きつつあります。ヒューマニズムの根源的な仮定の1つが「個人という実体が存在する」というものです。丸山宏という私は1人しかいません。昨日の私と今日の私は同一人物です。でも、本当にそうでしょうか。行動経済学者のダニエル・カーネマンによれば、人間の心には「経験する自我」と「記憶する自我」があり、必ずしもそれらが下す判断は一致しないそうです。ある意味、2つの人格が1人の肉体の中にあるといえるでしょう。ハラリは、人間の脳の活動は生化学的に実現されたアルゴリズムの実行に過ぎない、といいます。もし、カーツワイルが言うように、脳科学が進歩して人間の記憶をコンピュータにアップロードできるようになれば、同じ人格が肉体の中とコンピュータの中に存在することになるかもしれません。その場合「個人」とは何でしょうか。もし、「個人」や「自我意識」のようなものの存在の仮定が揺らぐのであれば、それらに基づくヒューマニズムは行き場を失います。

 では、ヒューマニズムに代わる世界観は何でしょうか。まだそれは誰もわからないのですが、著者は「データイズム(データ至上主義)」が1つの可能性だと言います。もし個人の境界が曖昧になるのであれば、いっそのこと人々をつないで、世界全体を(ゆるやかな)1つの集合体と考えてみるのはどうでしょうか。インスタグラムなどのSNSによって、人々は自分の経験を世界中の人と共有できるようになりました。同時に、自分たちの意思決定も、Googleの検索結果やAmazonの「おすすめ」に、より強く依存するようになってきています。他人の経験を共有でき、また意思決定の多くをネットに任せるのであれば、それは「自由意志を持つ個人」を基盤とするヒューマニズムとは異なる世界観です。このような世界は望ましいのでしょうか。人々には社会承認欲求があるのだと言います。もし、ネットによって多くの人々とつながっているのが心地よいのであれば(そして、私自身もそのように感じることが多いです)、1つの可能性としてありうるシナリオのように思います。

以上のように、この本では人類の宗教(=世界観)の歴史を、アニミズム、神、ヒューマニズム、データイズムの4局面に分類しています。まとめてみましょう。

1.アニミズム=人は自然の一部
   ↓ 農業・言語の発明

2.神=人間は神が作ったから特別、気象・天文・疫病は神の意思
   ↓  科学(物理学、細菌学など)

3.ヒューマニズム=神はいない、人は考えるから特別。独立した個人(経験を共有できない)、啓蒙主義、自由意志、
   ↓ 認知科学・情報科学、生物はアルゴリズム

4.データイズム=「新たなる全体」、社会的欲求が満たされた状態。情報技術によって、経験の共有ができる(例:インスタグラム)

日本では

 さて、この歴史観は本当にそうでしょうか?ハラリの文章はとても説得力があり、なるほどそうだ、と思うところがたくさんあります。しかし、じっくり考えてみると必ずしも世界中がそうであったわけではないかもしれません。

 ハラリは、農耕によって人間が自然を思いのままに収奪するのを正当化するためには「全能の神が人間を特別に創造した」という虚構が必要であった、としていますが、日本では宗教が社会の規範に果たす役割が西欧に比べて小さかったのだと私は思います。西欧では異なる宗教、あるいは同じ宗教でも異なる宗派によって激しく対立しましたが、日本では神道と仏教が問題なく共存していました。ちなみに、神道にも仏教にも、全能の神のような存在はありません(神道は多神教ですし、仏教はむしろ無神教というべきものです)。そもそも、日本では明治維新までは肉食がほとんどありませんでしたから、家畜を屠殺する言い訳も必要なかったはずです。全能の神ではなく、日本では伝統的に八百万の神々の考え方があって、これはむしろアニミズムに近いものといえましょう。明治維新の後、岩倉使節団が欧米を視察したときに、欧米列強においてキリスト教が国民の統合に果たす役割を目の当たりにし、日本でも神道を近代国家統合の基幹にしようとしたそうです。これも、日本では西欧ほど、宗教が社会における規範に果たす役割が大きくなかったことを示していると思います。

 西欧の神の時代、ハラリは芸術も神の手になるものであった、としています。美しいものはそもそも神が作りたもうたものであり、芸術家はその神の作品を見つけ出すだけの存在だ、というのです。でも、日本ではどうでしょうか。日本文化の初期の代表作の1つ「枕草子」は「春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる」という有名な一節で始まります。決して神々を讃えているのではなく、むしろ自然をそのままの姿で愛でているのがわかると思います。「いとをかし」「あはれなり」などの表現も、神ではなく「自分がどう感じるか」という体験を表現していて、これはむしろ個人の体験を大切にするという点で、ヒューマニズムの価値観につながるものともいえます。

 このように考えると、日本は宗教が与える全体的な規範と、個人の経験をうまくバランスさせてきた社会といえるかもしれません。だとすれば、たとえ「データイズム」の世界、すなわち人々が経験の共有を通じてゆるやかな全体に統合されるという価値観は、もともと私たちのメンタリティに合っているのかもしれません。

データイズムの危険

 しかし、「データイズム」の世界には大きな危険もあります。ハラリが指摘するように、私が自分の情報を機械に開示すればするほど、機械はより正確に私の反応を予測することができるようになります(アマゾンの「これを買った人はこれも買っています」はこのような予測モデルの典型的なものの1つです)。このような予測を使えば、人々の判断を誘導することも可能になります。私たちの判断がより機械に依存するようになれば、それを悪用して社会を支配しようとする人が現れるかもしれません。ヒットラーやスターリンが、今のGoogle、Facebook、Amazon、Appleのような力を握っていたとしたら、何が起きたでしょうか。すべての人の需要を正確に予測しコントロールできれば、社会主義の計画経済が破綻することはなかったでしょう。同様に、ユダヤ人に対する憎悪をより効果的にかきたてることだってできたはずです。

 ここで私たちは、ヒューマニズムをなぜ簡単に捨ててはいけないかの理由を、改めて自問しなければなりません。「すべての個人が生まれながらにして人権を持つ」という価値観を明確にした世界人権宣言が採択されたのは1948年のことです。そこには、2度の世界大戦に対する痛烈な反省があったからに違いありません。人類の長い歴史の中で、第2次世界大戦後の70年間ほど平和な時代はなかったのだと、スティーブン・ピンカーは「The Better Angels of Our Nature」で述べています。私は自分の子供や孫の世代が、同様に平和な時代を生きてほしいと心から願います。一人ひとりの自由や人権の代わりに、国家やイデオロギーという「虚構」を優先してしまったところに過去の戦争の悲劇が起きたのだとすれば、個人の尊重を最大の善とするヒューマニズムは、簡単に捨ててしまってはいけないものだと思います。

おわりに

 この本を読み、それからIBMの山下さんが企画した読書会に参加して多くの方と議論し、もう一度本を読み返しました。また、ハラリの新刊「21 Lessons for 21stCentury」も読み始めています。そこで強く感じるのは、ハラリの西欧的な世界観です。人類史をアニミズムの時代、神の時代、人間中心主義の時代、それからデータ中心主義の時代、と整理するのはわかりやすいですが、世の中をあまりに還元論的に単純化して議論しているように感じます。一方で、日本におけるわび・さびなどは、部分の構造ではなく全体感を大切にする価値観といえましょう。もちろん、どちらかが絶対的に正しいというつもりはまったくありません。ただ私が思うのは、常に多様な見方を探し続けることが根源的に重要だということです。なぜなら、多様性こそが、地球上の生物を40億年にわたって生きながらえさせた原動力だからです。

 この本をきっかけにして、様々な新たな考え方が議論されることを願ってやみません。

いいなと思ったら応援しよう!