君に幸あれ 第3話 不遇
君に幸あれ 第3話 不遇
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「あの! そこ、邪魔なんですけど!」
「あ、すみません」
「ったく、歳だけとって、なんにも仕事出来ないんだから! 分かったら、とっとと、そこどいて!」
勝気なパートタイマーの吉毛に一喝され、申し訳なさそうに道を譲る男、向前 太一郎(むこうまえ たいちろう)。
吉毛は、さも鬱陶しそうに、鼻をふんふんうならせながら、彼の前を通り過ぎていく。
「ちょっと! 向前さん!発注お願いしてた佐々木ビールの黒、まだ届いてないんだけど!」
今度は酒販担当のパートタイマー、室井がヒステリックに声をあげる。
「あ、それは、来週の搬入になるって、先週の申し送りに書いてたと思いますが…..」
申し訳なさそうに答える向前。
「あんたさあ、なんも分かってないよね? 今日から三連休で、いちばん商品が動く時期じゃない? なんでそのタイミングに入荷出来るように動かないの? ボケっとしてんじゃないわよ!」
室井も向前にきつい口調で、声を荒らげる。
「向前さん! レジ回ってないんですけど! お客さん、しこたま並んでますよ!」
バイトリーダーの岡田が、血相を変えて彼の元へ飛んできた。
「あ!ご、ごめんね!今すぐ行くから!」
癇癪を起こした室井を放り出し、レジに走る向前。
酒販コーナーを抜け、お菓子コーナーを通り過ぎると、目の前がレジコーナーだ。
そのお菓子コーナーを通り抜けた途端、長蛇に並んだレジ待ちの客達が、むせ返るようにして並ぶ、というよりも、もはやたむろしていた。
「すみませーーん! 大変お待たせしております! 次でお待ちのお客様、こちらへどうぞ!」
4列並んでいるレジで、稼働しているのは左側2台。向前はその3台目に駆け込み、レジを立ち上げる。岡田もそれにならい、4台目を稼働させる。
「お待たせしましたー!」
「大変お待たせしまいた!申し訳ありません!」
飛び交う謝辞と共に、徐々に流れて行く客の列。夕方からのタイムセールの波もあり、いつも以上にその余波は長かったが、夜からのバイトスタッフがレジに到着する頃には、客足も緩やかになっていた。
「忙しかったですね〜」
「お疲れさん! 助けてくれてありがとうね」
互いに賞賛しあう向前と岡田。額に滲む汗が、誇らしげに微笑む。
すると、
「ちょっとぉ! 誰? こんな陳列したの?」
またもや室井が、店内である事も顧みずに、怒号を撒き散らす。
「お疲れ様でしたぁー」
私服のスカジャンと、ボロボロに破れたダメージジーンズに着替えた岡田が、意気揚々と事務所を後にする。
「お疲れ様さん! 気をつけてね〜」
いそいそと姿を消す岡田を優しく見送る向前。
午後8時。
彼も就業時間はとっくに過ぎている。
急な欠員で、午後から夕方までレジに入り、それが終わると、日本酒のコーナーを室井流直々の、効率と購買意欲を喚起する陳列に変更、そしてお昼のレジスタッフが打ち間違えたレシートの訂正等を済ませると、終業の午後6時を大幅に超えてしまった。
彼はここ『デイストア水戸店』の契約社員であり、食品部門のチーフを任されている。
チーフとは言え、彼は御歳48歳。本来であればエリアマネージャーや、ある程度の管理職に就いていてもおかしくは無い年頃。
店長の西川でさえ、彼のひと回り下の36歳だ。しかし、彼はうだつの上がらない平社員のまま。周囲からは所謂『ダメ社員』としてのレッテルを貼られ、陰では面白おかしく笑いものにされている始末。
それには、確固たる理由があった。
彼は『馬鹿』が付くほどのお人好しだった。
頼まれたら断れない、困っていたらほっとけない、人が嫌がる事には率先して首を突っ込むなど、面倒事を買って出る程の人の良さ。本来ならそれで周囲からは感謝されてもいいはずだが、彼に関しては逆に罵られたり、馬鹿にされてばかり。
いつの間にか『めんどくさいことは向前へ』という空気が蔓延してしまい、むやみやたらに煩雑な事案が彼に舞い込んで来る始末。その為にどうしても取りこぼしてしまう事や、全体的な対応が緩慢、不十分である事も少なくない。
そもそも人には許容範囲というものがある。それを遙かに超えて、舞い込む瑣末なクレームやら問い合わせ。
何も彼自身、それを好き好んでやっている訳では無い。が、しかし、誰かが不愉快な思いや、悲しい思いをするのであれば、自分が被むる事を選ぶ男。それにかこつけて、嫌な事にはさも被害者ぶるスタッフばかり。結局のところ、いつまで経っても、彼の仕事は減るどころか、どんどん積み上がっていくばかりだった。
が、しかし!
今日は特別だった。
そう! 今日はドルオタでもある彼が、人生を賭して応援しているアイドル、沙藤エマの生誕祭。今日の夜10時よりYouTubeライブでその模様が生配信される。
しかも、そのイベント内で、彼はエマとの生電話の権利を勝ち取っている。その生電話は今日の夜11時。
奇しくも2週間前に彼のスマホが動作不良を起こし、今回の生電話のチャンスは危ぶまれたが、昨日、修理が終わって彼の手に戻って来た! 仕事が終わってさえしまえば、今日はもう天国だ。
いつも向かい風だった風向きは、少しずつ彼の背中を押し、今日こそ天使は彼に微笑みかける。
だからいつものゴタゴタなど些細なこと。
夢にまでみたエマとの初めての逢瀬。電話越しではあるものの、彼の声にエマが答えるのだ! 一生のうちに一度あるかないかの絶好の機会。これを逃してしまえば、エマに認知されるタイミングなどもはや皆無。
それだけ、彼にとって今日は大切で、岐路となる一日だった。
「よし! 帰ろう!」
時計の針は8時40分を指し、帰宅時間を考えると、ライブ配信開始まで猶予が無くなってきた。
向前は気もそぞろに業務日報を書き終えると、誰も居なくなった事務所を後にした。
そして、夜勤のバイトスタッフに声を掛け、颯爽と店舗出口へ……
「おい! どうなってるんだ!」
いざ、店舗を後にしようとした刹那、誰かの怒号が向前の耳に飛び込んで来た。
一瞬彼は、その怒号を否定した。
"きっと声が大きいだけのお客さんが来てるだけ"
"夜のメンバーで、なんとかしてくれるはず"
"いや、しかし、だけど、でも…….
向前は踵を返し、その声の聞こえる場所を目指すのだった。
「あぁ!もう!こんな時間だ!」
向前は珍しく気持ちを苛立たせつつも、自分の車まで急いだ。
怒号の主は初老の男。向前が駆けつけ状況を確認すると、彼は顔を真っ赤にして、レジを打ち間違えたスタッフに激昂し、怒りを露わにしていた。叱責を受ける女子スタッフは、恐怖のあまりに萎縮し、声も出ない程に怯えていた。しかし初老の男は、そのスタッフの態度が『無視』をしていると解釈してしまい、火に油を注いでしまっていた状況だった。
取り急ぎ向前は、一先ず謝りを繰り返し、客の言い分に耳を傾け、それについての不手際に関しての謝罪を繰り返した。
1時間程そのやり取りは続き、客は不機嫌なまま店を飛び出し、そのスタッフはいつの間にかトイレに駆け込んでいた。
そのまま向前は行列になった客の列をさばき、その後泣き喚くスタッフの元へ駆けつけると、今度は彼女が怒りを露わにし、彼に食ってかかる始末。
なだめすかす事1時間。
納得しないまま、彼女は退勤時間だと言うだけで、話の途中で事務所を後にした。
やり切れぬまま、向前は腕時計にやっと目を向ける。
時計の針は午後11時3分。
生電話の時間は11時10分まで。早く電話しなければ、コーナー自体が終了してしまう!
向前は急いで車に駆け込むと、急いで戻って来たばかりのスマホを取り出す。そして
取り急ぎ、メールで送られてきたコーナー用の電話番号をタップする。
『トゥルルルル…….』
思いの外長く響くコール音。
焦りと緊張と、期待と諦めが頭と身体を駆け巡る。
そして、そのコール音が止み、嵐のような風を切るな雑音が、彼の耳にこだました。これはエマが電話に出たのか?
意を決して、向前は受話器の向こうのエマに向けて、その口を開いた。
つづく。