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君に幸あれ 第8話『転機』

君に幸あれ 第8話『転機』
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『うちで働きませんか?』
  初めて出会った女性からの申し出に、向前は躊躇した。仕事内容は主に電話番と、彼女の業務補助として必要な備品を揃えたり、送迎とボディガードらしい。
「何故、僕なんですか?」
向前は率直な疑問を彼女にぶつけた。
「向前さん、ご自身ではわかり辛いかも知れませんが、貴方は純粋で穢れなき人。貴方と云う存在は、そこに居るだけで邪な霊を退ける力を持っています。だからこそ電話だけでエマさんを助ける事が出来たんです。だから、私のそばで私を守ってもらえませんか?」

向前はその言葉に頭が真っ白になった。
生まれてこの方48年、一度たりとも女性からそんな言葉を掛けられた事もなかったし、一生そんなことはないと信じて疑わなかった。がしかし、現にこうしてしかも若くて綺麗な女性から、そんな申し出があった。
ちょっと待て!
これは仕事だ。言葉尻を取れば、甘く切ない心ときめく話しだが、あくまでも仕事である。色々霊の勉強したり、道具の名前やその用途も覚えなきゃならないだろう。それに送迎って、車の運転のはず。方向音痴な彼は、果たして彼女を目的地まで道を間違えることなく送り届ける事が出来るのだろうか? 
甘い言葉に絆されて、淡い気持ちに陥る前に、向前は冷静に考えた。
  落ち着いて考えるとやはり自信が無い。
この歳でまた新たな事に挑戦する勇気と、その余裕は彼にはなかった。

クビになって数日。
何もやる気が起きず、食欲もなく、唯一の心の支えはエマ1人だけだった。しかしながら、こんな自分の姿をエマが見たらどう思うだろう?  決して良い印象を持つはずはない。命の恩人とはいえ、世捨て人同然と化した彼の姿を見たら、顔をしかめるはず。
エマのファンとして、胸を張れる存在で居たい。されどエマが好きという事以外に何も持ち合わせて居ない自分を世間は相手にはしない。
どうすればいい?
僕はどうすれば。

人生半ば、半世紀経ようとしている今、彼は自分のこれからについて迷い、その一歩を踏み出す勇気が持てなかった。

彼はスマホを取り、画像フォルダに入っているエマの写真に逃げた。
世界中の全ての人が僕を相手にしなくても、この笑顔は僕を裏切らず、変わらぬ優しさで僕に接してくれる!
そう心の中でもがきながら、いちばんお気に入りの写真にたどり着こうとした瞬間、けたたましい着信音が鳴り響いた。
その音に驚いた向前は、たまらずスマホを落とした。
慌ててスマホを拾い、着信主を見る。
そこには先日彼に声をかけてきた女、奈央だった。
そういえば、返事の期限が今日までだったことを、今更ながらに思い出し、向前は電話に出るのを躊躇った。
しかし鳴り止まない着信音。
断る旨を深く胸に決意し、彼は応答のボタンをタップした。

「もしもし! 向前さん? お願い!助けて!!」
  奈央の鬼気迫る声が、けたたましく彼の耳響いた。
「お願い!」
さらに被せる奈央の声に向前は、先程までの決意が蜘蛛の子を散らすように消えて行くのを感じた。
そして、彼の中でなにかが変わり、動き出そうとしているのを感じるのだった。

つづく


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