ハンナ・アレント「責任と判断」 リチャードはリチャードが好きだ
ソクラテスにとっては、この<一人における二人>とはたんに、思考しようとすれば、思考のための対話を実行する二人の仲が良いこと、パートナーが友人であるようにしなければならないということにすぎません。悪しきことを為すよりも、悪しきことを為されるほうがましなのは、悪しきことを為されたとしても、まだ自己と友人でありつづけることができるからです。誰が殺人者の友人であることを、殺人者と共に暮らすことを望むでしょうか。殺人者でもそれは嫌うでしょう。殺人者といったいどんな会話を交わすことができるというのでしょうか。シェイクスピアの「リチャード三世」では、リチャード三世が多数の犯罪を犯した後で、次のように自問します。
何だと。おれ自身が恐ろしいとでもいうのか。側には誰もおらぬ。
リチャードはリチャードが好きだ。つまり、おれはおれだ。
ここに人殺しでもいるというのか。いや、いない。そうだ、おれが人殺しだ。
じゃ逃げろ。なんと、おれ自身から逃げるとでもいうのか。いったいどんな理由からか。
おれが復讐するといけないからだ。何だと、おれがおれに復讐するというのか。
ところが悲しいかな。おれはむしろ自分がしでかした忌まわしい行為のためにおれ自身が嫌いなのだ。
おれは悪党だ。しかし自分では悪党ではないよう顔をしている。
馬鹿、自分のことはよくいうものだ。馬鹿、おべんちゃらをいうな。
ジェローム・コーン編 ハンナ・アレント「責任と判断」